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木柱で造られた階段を上ると「壺坂口門跡」の標板が立っている。
江戸時代には壺坂口郭があったところで、変三角形の形状をしている。 侍屋敷があったようである。
道は右にカーブしながら上っていく。
5分程上ると左右に門の石組が現れ、正面の石垣が直行を阻む。
ここには「壺坂口中門跡」の標板が立っている。
両側の石垣は壺坂口中門の石組で、かってはここに門が建っていた。
ここまでが壺坂口郭で、ここを越えると、二の丸までは石垣に囲まれた狭い道が続く。
中門を入った先は右側には細長く山並みに沿って郭が造られていた様子だが、今は樹木が生えていた。
そこを過ぎると、右側に高石垣が現れる。 細い道に聳える高石垣は大手門郭下の石垣である。
左側に低いの石垣が続きが、かっては城代屋敷があったところである。
その先に「←壺坂寺方面 五百羅漢・土佐街方面」 「←八幡神社口壺坂寺方面 ↑壺坂山駅 国見櫓方面」
の標識が立っている。
左折すると、「高取・明日香ハイキングコース」の大きな看板とベンチ、
「←ニの門跡560m」「本丸200m→」の標識がある。
江戸時代には看板の奥に三の丸があった。
「芋峠2.3km→」の標識が立っている。
「 かっては三の丸を抜けると左側に飛び出した吉野口郭があり、
敵の手が迫れば吉野口門から南朝の吉野へ逃れることができた。
吉野口門の外側には、「みろく堀切」と呼ばれる巨大な堀切が残る。 」
壺坂山駅方面に向って進むと、左側の石垣の中央に入口のようになっていて、
ここが城代屋敷の入口であったのだろうと思った。
その先に左右喰い違いの石垣があるが、ここが千早門跡である。
ここは枡形になっていて、江戸時代には楼門があったのではないだろうか。
この道は大手道で、麓の城下町から二ノ門、三ノ門、矢場門、松ノ門、宇陀門を経て、ここに通じている。
「 城の北西部には侍屋敷を多く配置していた。
ニノ門から宇陀門まで多くの郭があり、家臣達の屋敷があった。
また、二ノ門から本丸へ行く途中には国見櫓があった。
櫓は失われているが、石垣上から文字通り奈良盆地を一望する事が出来、
天候が良ければ大阪市街・六甲山・比叡山までも見通すことが出来る。 」
ここで引き返すと、大手門前に「大手門より高取城を望む」というCGの写真の看板があり、 高取城の往時を想像することが出来た。
「 標高五百八十三メートルの急峻な山頂の南東部には、
尾根に沿って本丸、二の丸、三の丸と多くの曲輪が配され、石垣が積まれている。
本丸は二段構えになっていて、上段には天守曲輪が設けられて北西隅に三重三階の天守が築かれた。
天守は石垣の上に構えられた小天守と多聞櫓で連結されていた。 」
二の丸下段に大手門または御城門と呼ばれた枡形が構えられ、主郭部へ至る重要な門になっていた。
大手門石垣はミドリの苔に覆われ、光が当たる部分は光って美しい。
虎口を形成する石垣は高く、迫力がある。 江戸時代にはこの上に櫓が建っていたのである。
大手門は枡形になっているので、両側の石垣を右に左に曲がりながら進む。
大手門を過ぎると細長い郭跡で、すぐに次の曲輪への虎口となり、石垣に次ぐ石垣である。
その先にある虎口は十三間多聞櫓である。
「 十三間とは約24mで、江戸時代には左右の巨大石垣の櫓台の上に多聞櫓が乗っていた。 」
足元を見ると、門の礎石と思われる石があり、正面の石垣の下に「十三間多聞櫓」の標板が立っている。
道はここで右折する。
ここを越えると二の丸へ出る。
江戸時代には隅櫓とそれらを繋ぐ多聞櫓で守られ、中央に二の丸御殿があったようである。
十三間多聞櫓を出て、二の丸に入ると左奥にあるのが太鼓櫓・新櫓の石垣である。
「 太鼓櫓・新櫓は本丸手前に配置された石垣で、昭和47年度に修復された。
この上に太鼓櫓・新櫓が建てられ、堅牢な構造となっていた。 」
石垣の下に「高取城沿革」の説明板があったが、文字が風化しすべてを読みとることは不可能であった。
また、日本三大山城説明板がある。
「 大和郡山城と美濃岩村城、そして備中松山城の名前が記載されていて、 この三つの城は、日本三大山城サミットを開催し、交流を深め保存と活用に努めている。 」
左側の狭い道を行くと右側に二の丸の上段と下段を分ける虎口がある。
門の手前右側にちょとした石垣の土台的な場所が築かれているが、番所的な場所であろうか?
石段を上ると、両側にある立派な城門石垣前に「十五間多聞櫓」の標板がある。
江戸時代には左右の石垣を渡す形で、十五間(約27m)の多聞櫓が建っていた。
十五間多聞櫓を上りきると、二の丸上段である。
右側に石段があるが、江戸時代には左右に太鼓櫓と新櫓があった。
今は大きな樹木が生い茂っていて、展望はよくない。
「 南側の太鼓櫓は二重二階、北側の新櫓も二重二階で、その間を土塀でつながれていて、
太鼓櫓から十五間多聞櫓が繋がっていて、
新櫓と太鼓櫓と十五間多聞櫓がL字型をなしていた。
この建物群の機能としては、ここで天守の防衛を果たし、馬出の形式をしていたと考えられている。
この石垣が新しくみえるのは、昭和四十九年に修復されているからである。
新櫓は太鼓御櫓の後ろ側にあたるため、明治の古写真に姿はないが、
石垣の構造などからおそらく同規模の櫓が建っていたと推定されている。
新櫓台には礎石跡が確認されている。 」
太鼓櫓・新櫓石垣の右側の狭い道の先に七つ井戸へ出る虎口がある。
搦手門といわれるもので、枡形になっていたと思われるが、江戸時代にはその下に七つ井戸があった。
パンフレット
「 高取城の裏手(搦手)側の急な斜面には、
七つ井戸と呼ばれる石垣造の井戸が四つ見られます。 山城では水の確保が要となります。
七つ井戸のある斜面には石垣が連なるように築かれています。
下から見上げると、新櫓台まで巨大な高石垣のように錯覚します。 」
とあったので、降りて行ったが、「井戸あり 注意」の看板があるが、井戸は見つからなかった。
「 高取城の井戸は多数見受けられるがその大半は、雨水や湧水を集水したもので、 地下の水脈まで到達した井戸はほとんどない。 」
この道を下ると七曲りの道で、降りきると車道の行き止まりのところに出る。
仮設トイレがあり、普通車はここまで来られるが、前述したように訪れた時は八幡口で通行禁止に
なっていた。
二の丸上段には大きな木があり、「 御神木 天守大杉 芙蓉姫 樹齢七百年 樹高弐拾六米
幹周五・参米 」とあった。
「 石段の先の高石垣は本丸天守石垣である。
本丸天守石垣は城内最大の十二メートルの高さで、その上に三重の天守が建っていた。」
本丸へは天守台の左、狭い道を行くが、右に向い、本丸石垣を一周することにする。
本丸の周囲は帯曲輪になっていて、周囲は石垣で固められ、それぞれの隅部には櫓が建ち、
虎口なども設けられていたと思われる。
天守台石垣から右に進んだところに「高取城址」の石碑があった。
後の高石垣は天守石垣が少し飛び出し、その右に続く石垣の南西端の上に小天守があった。
小天守の真下、帯曲輪には平屋の小さな未申櫓(ひつじさるやぐら)が江戸時代には建っていた。
本丸の石垣が折れ曲がりながら続く。 その下には二の丸石垣が回りを囲んでいる。
「 本丸石垣の上には大天守・天守・三層櫓群を多聞櫓(長屋状の櫓)で繋ぐ壮大な構えで
あった。
本丸南側の石垣の上には多聞櫓が連なっていた。
石垣は築城後400年、廃城より150年経過したが、ゴツゴツした打込みハギの石垣がそびえている。 」
本丸北東側の石垣の上には、江戸時代、鉛櫓が建っていた。
石垣の下部に六段程の石垣が飛び出すように築かれている。
犬走りのような低い石垣であるが、後年、石垣の補強のために築かれたのか、他に目的があったのか?
気になった。
「 江戸時代には、鉛櫓正面、帯曲輪の外周には、平屋の櫓があった。 その土台が残る。 その右奥には帯曲輪を仕切る城門もあった。 」
本丸虎口に近い高石垣の上には、江戸時代、鐙(あぶみ)櫓が建っていた。
本丸の入口には木彫りの城と熊の置物があった。
ここは帯曲輪の北部に位置する。
城の入口を虎口というが、最も重要な形式が枡形虎口である。
本丸の枡形虎口は城内でも特に強固である。
奥の石垣に沿って右折すると、すぐにまた、右に曲がる。
左側は今はそのまま帯曲輪に飛び降りる程度の高さであるが、
当時は土壁があって、壁と石垣の間の狭い通路を通る感じになっていた。
突き当たりを右へ。 右に曲がると、今度は左に曲がっている。 当時はここに城門があった。
城門のものと思える礎石が残っている。
城門の扉を中央で固定したのか、あるいは太い柱が真中に据え付けられていたのか、
大きな四角の穴が開けられた大きな石が埋め込まれている。
突き当たりを左に曲がると、右側に木が生えているので分かりづらいが、
正面の石垣で左右両方に道が曲ってある。
突き当たりで右にむくと、行き止まりに見えるが、入って行くと右側に細い石段があり、
本丸天守台前へ直接行けるようになっている。
「 江戸時代にはこの周囲の石垣に土塀が巡らされていたので、見通しは悪かった。 江戸時代にも石段で上れたのは不明で、城の警備からすると簡単に天守へ行けたとは思われない。 なんらかの工夫が施されていたのではないか?」
左の道を進むと、本丸広場に出る。 本丸虎口は四回曲って、直線の奥が本丸で、
「喰い違い虎口」である。
本丸は東西七十五メートル×南北六十メートルの広さで、
高さは約八メートルの石垣に囲まれていた。
背の高い木が多く生えているので、イメージがわかないが、
「本丸大広間」という場所に礎石が数カ所あり、一棟の御殿があったと考えられている。
左手(南西角)に一〜二段の石垣の上に、江戸時代には三重三階の「小天守」があった。
大きさは東西12メートル×南北13メートルである。
南多聞櫓跡前、本丸中央に本丸の説明板が立っている。
屋根は苔蒸しているが、文字は読むことができた。
説明板「本丸」
「 本丸は、大小二棟の天守閣と鉛櫓(平櫓)、硝煙櫓(東側、二重三階)を多聞櫓
(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。
これを連立式(天守の縄張り)といっている。
東西四十間余(約七三米)、南北三五間(約六四米)の凸字型の平面をなしている。
地型の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張になる。
しかし、この本丸は平城城郭のような整然さを有するので、
築城技術の完成したころの構築とみなされる。
昭和四七、四八年度の県教育委員会の高取城修理にともない、本丸東北隅の部分を対象に、
石垣の実測、根石の状態を調査した。
石垣のひずみの部分は後補のものであり、隅石には転用材を使用していることが明らかになった。
転用石の中には漆喰が付着した石が二箇検出され、切石古墳の石を使ったものと想定される。
漆喰については、分析によると桜井付近で古墳漆喰の分析値と似ていると報告されている。
また、本丸鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は、
山城での遺存例として現在のところ唯一の発見例で注目すべきものである。
奈良県教育委員会 」
説明板の奥は南多聞櫓の跡で、石垣の上に礎石が残っていた。
多聞櫓の先には大天守の石垣が見えるが、その前に水がある穴がある。
ここは本丸御殿跡で、穴は東西約5メートル×南北約3メートルの「楠井戸」である。
その奥にあるのが、本丸大天守台である。
「 天守は本丸の北西に位置し、
天守台の石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない工法である。
天守の大きさは東西約十六メートル、南北約十四メートルで、
「御天守」と呼ばれていた。
外観は、「和州高取城山之絵図」によると、一重目は千鳥破風、二重目の中央に出窓形式、
三重目には軒唐破風があり、
外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観三重、地下一階の天守が推定されている。 」
石垣の中央が凹んでいるが、天守台には通路が約3メートルの穴蔵を設けていて、 穴蔵部分に相当する。
「 このような穴蔵形式をもつ天守台は、他では犬山城、福知山城、
岐阜城が同じような形式で、天守台としては発展期の築城様式と考えられている。 」
天守の右側(東側)には付櫓台があり、二重の具足櫓が建っていた、と考えられている。
現在はその形跡は残っていないが、天守台に行ける木の階段が架けられていた。
階段を上り、天守台に立つと、空地の中央に「基礎測量」と「三等三角点」
と書かれた木柱と三角点を示す石柱が埋められていた。
以上で、高取城の探索は終了し、麓にある夢創館で、日本100名城のスタンプを押してきた。
所在地:奈良県高市郡高取町高取
近鉄吉野線「西壺坂駅」から徒歩の場合、夢創館、砂防公園、宗泉寺を経由し、本丸跡まで約2時間
壺坂寺を経由して高取城跡へは、奈良交通バス「壺坂寺」行きで、約10分、「壺坂寺」下車、
壺坂寺〜五百羅漢を経由して城跡まで徒歩約60分
高取城のスタンプは麓の夢創館に置かれている
夢創館(高取町上土佐町20-20 0744−52−1150 月休、9時30分〜16時30分)は駅より800m、
約15分
スタンプは時間外と休館日には玄関脇の屋外パンフレットケースに置かれている