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江戸時代の本丸図を見ると、本丸門から左右に水掘が続き、
本丸を囲む石垣が折れまがった縄張を多用し、横矢掛りが出来る構造になっていたことが分かる。
正面の本丸門は平成八年に古写真を基に復元されたもので、
もとの門は明治十年代に取り壊されるまで、約二百三十年間建っていた。
「 本丸門は高さ四・六メートルの左前枡形の石垣と脇戸付櫓門、入母屋造、
本瓦葺の一の門と小戸付高麗門、切妻造、本瓦葺の二の門で構成されている。 」
楼門をくぐると、広い空間が広がっていたが、 江戸時代には正面に本丸御殿があったところである。
「 土が盛り上げられたところに、昭和五十八年(1983)から行われた発掘調査を基に、 番所、納戸間、内玄関などの部屋の表示があり、当時の間取りの様子が分かるようになっている。
右側に藩主が政務を行う表御殿があり、その中には大書院、小書院、藩主が使う上之間があり、
右(西)側の縁側の外に庭園があったようである。
左半分は奥御殿で、台所や藩主が住む表居間や寝室があり、
縁側の先には池泉式庭園があったことが説明板に表示されている。
説明板 「国名勝 赤穂城址本丸庭園 大池泉」
「 元禄期の絵図によれば、本丸庭園は藩主御殿と隣接して、築山を背景とした方形の池泉があり、
中島内にソテツや松が植えられて、八つ橋が掛かる景観を見せていた。
池泉の東側にあった藩主の居間(十七畳半)には縁側の先に白砂が敷かれ、庭を眺めることができた。
江戸時代後期に改変された池泉周辺には塀が設置されていた。
赤穂城内水筋図には旧赤穂上水道を使った給水ルートが描かれており、
南側の本丸外堀へと排水された。
この池泉は昭和五十九年(1984)の発掘調査によって全容が明らかになり、見つかった遺構をそのまま
活用して、浅野、森時代の庭園を復元整備したもので、
平成十四年(2002)には国名勝に指定された。 」
藩主が住む本丸には上述の大池泉の他、御殿内部の坪庭や本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉があった。
これらの池泉の他、生活用水もすべて約七キロ上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われていた。
奥御殿の左側に天守台がある。
「 天守台は築かれたが、幕府の許可が下りず、天守は築かれなかった。
天守台に上る石段は途中で終わり、その先は鉄製の階段になっていた。 」
天守台から下の本丸を眺めた。 本丸の先にあったのは二の丸である。
「 赤穂城は藩主御殿のある本丸とその周囲を取り囲む二の丸、
そして北側に曲輪が取り付く三の丸の三つの曲輪によって構成される。
二の丸には二之丸庭園をはじめ、馬場や米蔵などがあった。 」
大石頼母助(おおいしたのもすけ)屋敷門がある。
説明板
「 大石頼母助良重は大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で、
家老職にあった。 藩主浅野長直(ながなお)に重用され、二の丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。
山鹿素行が赤穂に配流された際、この屋敷の一角に八年余りを過ごしたという。
この門は発掘調査で発見された土塀の基礎石列、建物礎石などに基づき、
平成二十一年に薬医門形式の屋敷門を復元したもので、
一間一戸潜戸付薬医門で、木造、切妻造、本瓦葺きである。 」
門をくぐると視野が広く広がり、「二之丸庭園」の看板があった。
「 二之丸庭園は二の丸北西部にあった大規模な回遊式庭園で、東は大石頼母助屋敷から 始まり、西は西仕切りまで及ぶ、ひょうたん形の雄大なものだった。 山鹿素行も頼母助屋敷の一角に寄寓生活を送った時に、この池泉で遊興したとされる。 発掘調査の結果を受け、二之丸庭園は本丸庭園とともに国の景勝に指定され、現在復元工事が行われている。 」
くずれかけた石垣があるところに到着。
「二の丸門跡」の説明板の先には川がながれ、三の丸と区分していて、
説明板の奥にはかんかん石といわれる二つの大きな石がある。
説明板「二の丸門跡」
「 浅野長直に仕えて赤穂に滞在した軍学者山鹿素行が築城工事中の承応二年(1653)、
この門周辺(二之丸枡形虎口)の縄張を一部変更したとされる。
二の丸の面積は一万七千二百五十九坪、二の丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪である。
また、文久二年(1862)十二月九日、赤穂藩森家の国家老森主税が藩士達に暗殺される文久事件の舞台になったのは
この付近である。
ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、
小石でたたくとかんかんという音をたてることから、かんかん石と呼ばれる。 」
手前右側の奥まったところには「山鹿素行」の銅像が建っている。
この銅像は大正十四年(1925)に謫居した跡地に建立されたが、平成十年に現在地に移された。
「 山鹿素行は江戸時代の兵学者、儒学者として名高い。
承応元年(1852)から万治三年(1660)の間、赤穂藩主、浅野長直に千石で召抱えられ、
承応二年には赤穂城築城に参画して、二の丸虎口の縄張を一部変更し、家中に兵法を指南した。
その後、寛文五年(1665)に「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、
翌年から延宝三年(1675)まで赤穂に配流され、二の丸内の家老大石頼母邸の一隅に謫居した。
この間に素行の学問を代表する著書が完成したとされる。 」
「片岡源五右衛門宅址」の石柱が建っている。 三の丸には城を守りを兼ねて、家臣が住んでいた。
「 片岡源五右衛門高房は浅野内匠頭長短と同年齢で、児小姓頭から側用人となり三百五十石を与えられた。 元禄十四年(1701)三月十四日、内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、 主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え、事態の収拾にあたった。 田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだ。 討ち入りの時は表門隊に属し、宮森助右衛門、武林唯七と三人組合って、 真っ先かけて、屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。 細川家にお預けののち、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹、行年三十七歳。 」
その先にあるのは大石神社である。
「 大石神社は大正元年、討ち入りした四十七士を祀る神社として創建された神社で、 大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直、長友、長矩、赤穂浅野家三代の 城主と、その後の藩主、森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀されている。 」
鳥居と神門の間に四十七士の姿の石像が祀られていた。
この裏は大石内蔵助の庭園になっていて、その先を進むと三の丸大手門に出る。
三の丸跡の大部分は空地になっていて、大変広い曲輪だったと感じた。
赤穂城には十の隅櫓と十二の門があり、曲輪の延長は二千八百四十七メートルに及ぶというから、
三の丸の規模の大きさもうなずける。
三の丸大手門とその脇の二重二階の三の丸隅櫓は古写真を基に、
昭和三十年(1955)に再建されたもので、隅櫓の初重には唐破風付出窓が配されている。
所在地:兵庫県赤穂市上仮屋
JR赤穂線播州赤穂駅から徒歩15分
赤穂城のスタンプは本丸櫓門下(9時〜16時30分)と
赤穂市立歴史博物館(赤穂市上仮屋916−1 0791-43-4600)にある