日本100名城 (59) 姫路城






姫路城は羽柴秀吉が築城した城を池田輝政が改築した城で、白鷺にたとえられる世界遺産の白亜の城郭である。
池田輝政が築いた姫路城は徳川家康が豊臣秀頼の住む大坂城を監視するため計画された天下普請の城で、 西国大名の進攻に備えた実戦的な縄張りの城である。

「 姫路城の創築は南北朝時代の始めとされる。 
羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭としての体裁を整え姫路城と改称した。
今日に残る城の形にしたのは徳川家康の娘婿池田輝政で、九年の歳月を費やして 慶長十四年(1609)、五重六階地下一階の大天守に三基の小天守を結んだ天守群を中心に、 多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。
その後、本多忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張を持つ名城が完成した。 」

勢隠曲輪は天守東部の搦め手から北部一帯の広い曲輪で、 喜斎門、八頭門、北勢隠門、南勢隠門で仕切られていたが、 いずれの門も建築物は無く石垣だけが残っている。 
内堀に面する北側は屏風折れに石垣が組まれ、死角を少なくしている。
明治に廃城後、大正時代に一般公開されてから終戦までは、 搦め手(裏口)の登城口である喜斎門(きさいもん)から入城していた。 
この場所は日中も人の流れが少なく、 落ち着いて写真撮影ができるスポットで、大迫力の写真を撮ることができる。 
正面の石垣・天端の勢いは城内最大の高低差が二十三メートル余あり、 手前に突き出した帯の櫓、左手には太鼓櫓があり、それらを結ぶ井郭櫓があり、その奥に大天守や東小天守などが見える。 

「 姫路城は典型的な平山城で、 天守のある姫山と西の丸のある鷺山を中心に、その周囲の地形を利用し、 城下町を内包した総構えを形成した城で、姫路は城下町を含め城郭都市を形成していた。 
内曲輪は東西四百六十五メートル、南北五百四十三メートルで、 内曲輪には八頭門、桜門、絵図門(出丸内側に菊門)、喜斎門、北勢隠門、南勢隠門が曲輪を仕切り、 天守や櫓、御殿など城の中枢部分をなしている。
中曲輪には武家屋敷などの武家地、外曲輪は東西千四百十八メートル南北千八百五十四メートルで、 外曲輪には町人地や寺町などの城下町が置かれていた。 」

姫路城
喜斉門跡から見た姫路城



喜斎門跡から上ると三の丸に出るが、正面には聳えるように建つ腹切丸とも呼ばれた帯郭櫓がある。

「 天守の南東にある帯曲輪で、ここから見ると一階建てと思えるが、実際は二階建てなのである。  城外側の一階は石垣に覆われていて、半地下のような構造になっていて、 約二十三メートルの石垣の上に二階建ての櫓がコの字型に建てられている。   敵が攻めてきた時、射撃などを行う場所として築かれた櫓で、二重二階で各階ともに三部屋あり、 一階には石垣の上の狭間から射撃をするために石打棚という棚をもうけている。  二階にも狭間が開けられていて、城外から見ると狭間が上下二段にずらりと並んで見える。 」

その左手に離れて建つ太鼓櫓は一重一階で折れ曲がりながら、西、南、北の三部屋があり、 江戸時代は「へ」の櫓と呼ばれた。 
歪みのある石垣上に建てられたため、西部屋は傾斜があるという。
太鼓櫓の西側には「りの門」があり、帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。
「りの門」は脇戸付高麗門で「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見され、 解体や移築の痕跡もないことから木下家定の時代の建築と判明している。

「 築かれた時代によって石垣が異なる。
帯郭櫓など、池田輝政が築いた石垣は打ち込み接ぎと算木積み、扇の勾配で、本丸に多く残っている。  秀吉が築いた石垣は野面積みで、二の丸に多く残る。  本多氏が元和四年頃(1618)に築いた石垣は西の丸に多く残っている。  」

上って行くと、櫓門(やぐらもん)の「との一門」があった。

「 姫路城にはいろは順に名づけられた門が十五、その他の門が六十九、 あわせて八十四門あったとされるが、 現在残るのはいろは付きが十三、その他の門が八、合計二十一門という。 
櫓門はこの他に「菱の門」「は」と「ぬ」 の門がある。 
門には色々な種類があり、上記の櫓門の他、高麗門、埋門、穴門と棟門がある。
高麗門(こうらいもん)は「い」「ろ」「へ」「とのニ」「との四」と「り」門である。
埋門(うずめもん)は「ほ」「水の三」「水の四」門で、穴門(あなもん)は「る」の門 である。 」

左太鼓櫓、右帯の櫓
     帯の櫓と石垣      との一門
(左)太鼓櫓(中央)渡櫓、(右)帯の櫓
帯の櫓と石垣
との一門



帯曲輪の右側を曲がるように上って行くと、棟門(むねもん)の「ち」の門がある。

「 ちの門は二本の柱を上に冠木を置き、腕木によって軒桁をささえ、 切妻の屋根を置いた棟門(むねもん)である。   棟門はこの他に「水の一」「水のニ」門がある。 」

建物や塀の屋根の鬼瓦や軒丸瓦などには、その瓦を作った時の城主の家紋が意匠に使用されていて、 池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の立ち葵紋などが見られる。
家紋の他には、桃の実(カの櫓、への渡櫓)、銀杏(井郭櫓)、小槌(への門)、 波頭と十字(にの門)などが意匠に使用されている。 
「ち」の門から備前門に通ずる天守の東側に搦手口を援護するように建てられたのが井郭櫓(いかくやぐら)である。

「 櫓には東、西、北の三室があり、西室の中央部に井戸を備え、井枠を囲んで流しの設備をつくり、 井戸の深さは十六メートル、水深は一メートルで、つるべを釣っている。 」

天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、 「水一門」から「水五門」までの門を設けている。
天守の北側の腰曲輪(こしくるわ)には籠城のための井戸や米蔵、塩蔵が設けられた。  なお、平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。
腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に五メートル二十センチ分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。
白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの築地塀で、 油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだものという。 
前述した帯の櫓の所に行くと「→腹切丸」の標識があり、地下に入る入口があった。 
中に入ると地下に井戸があり、内側からは二重の多門櫓であることが確認できた。 

ちの門
     井郭櫓      腹切丸
ちの門
井郭櫓
腹切丸



目の前には聳えるばかりの姫路城天守閣がある。

「 江戸時代のままの姿で現在まで残す現存十二天守の一つの中でも最大級で、 世界遺産に登録されている。
標高四十五・六メートルの姫山に建てられ、石垣が十四・八五メートル、大天守が三十一・五メートルで、 地表から四十六・三五メートル、海抜九十二メートルの高さになる。
羽柴秀吉が天正八年(1580)に建てた三重の天守は、 池田輝政が慶長十四年(1609)、新しい天守を建てるため、解体され、用材は乾小天守に転用されたという。 」

現在の天守は、池田輝政が建てたもので、 五重六階、天守台地下一階(計七階)の大天守と三重の小天守三基(東小天守・西小天守・乾小天守)、 その各天守の間を二重の渡櫓で結ぶ連立式天守である。

「 外観は最上部以外の壁面は大壁塗りで、 屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、 緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に懸魚が施され、多様性に富んでいる。 
最上階を除く窓は、ほとんどで格子がはめ込まれている。 
天守の外側を見ると、 初重は方杖付きの腰屋根を四方に、東面中央に軒唐破風と下に幅四間の出格子窓(でごうしまど)で、 北東、南東、南西の隅には石落としを設けている。 
二重目は南面中央に軒唐破風と下に幅五間の出格子窓、 東西に三重目屋根と交わる大入母屋破風を設けている。   三重目は 南面と北面に比翼入母屋破風、二重目から大入母屋破風が交わっている。  四重目は 南面と北面に千鳥破風、東面と西面に軒唐破風を設けている。  五重目は 最上部で、南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根を設けている。 
壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られていて、 防火、耐火、鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。  折廻櫓には編目格子が施されている。 各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。 」

天守閣
(左)西小天守(中央)二の渡櫓、(右)大天守


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天守の南側の空地は「本丸跡」で、池田輝政の所領地備前国にちなんで「備前丸」と呼ばれたところである。

「 池田輝政の居館は天守台下のここにあり、池田時代には執務をとっていたという。
御殿や対面所などの建物は明治時代に焼失して残っていない。 」

しかし、山上で使いづらいため、 本多忠政は三の丸に「本城」と称する館を建てて移り住んだ。

「 以降の城主は本城、あるいは、中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。   徳川吉宗の時代の城主、榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。  西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。 」

本丸北側にある水の五門は内庭につながり、大天守に至る。 

「 大天守の地下は、東西約十一間半・南北約八間半の大きさで、穴蔵と呼ばれ、  簀の子の流し台と台所を付属させ、厠が三ヶ所設置されていたという。 
大天守の心柱は東西方向に二本並んで地下から六階床下まで貫き、 太さは根元で直径九十五センチ、高さは二十四・六メートルの木材が使用されている。
東の大柱の目通りは十尺、末口は五尺三寸の杉木材で、 西大柱も同様の木材だが三重目(三階床下付近)で松に継いであり、 根元から二尺に継ぎ目に補修した「貞享保四年丁卯の六月」の墨書きがある。
その他の柱用材は欅、松、犬桜など堅い樹種を二寸角にして使用している。 
一階は東西約十三間、南北約十間で、北側に東小天守と接続するイの渡櫓、 西側に西小天守と接続するニの渡櫓がある。 」

水の五門
     西大柱      渡櫓と水の五門
水の五門
西大柱
ニの渡櫓と水の五門



大天守一階に二の渡櫓への鉄板鋲打ちの扉があった。

「 大天守一階と二の渡櫓を結ぶ扉で、火災と防備を兼ねた役割を担っていた。  大天守に入る扉は四ヶ所すべて二重扉になっていたが、そのうちのひとつである。  内側の門は片側に潜り戸が設けられ、両扉とも内側からカンヌキがかけれるようになっている。  また、潜り戸の大きさは刀を差したままでは通れないサイズになっている。  また、天井に渡された梁には肘木を添え、荷重を分担させている。  こうした肘木は大天守では一階のみで見られる。 」

二階は 一階とほぼ同様の構造で、地下から二階は身舎の周りに武者走りを廻し、 鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。

「 武者走りは身舎の外側を囲う廊下で、戦闘時は武士が行き交い、 敵兵に射撃を浴びせることを目的に造られたもので、 大人が五人横になっても余裕で歩ける程の幅があるが、 当時は鎧兜に刀を身に着けた侍が二人横並びで走れる幅ということからこの幅になったという。  両側には武具掛けが所狭しと並び、往時は鉄砲や長槍が掛けられていた。  火縄銃や長槍などの重量物を掛けたので、竹で作られたものではなく、L字型の金属製になっている。 」

三階は 東西十一間、南北八間で、武者走りがあるが、 それに加え破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所あり、 また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、 屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補正している。
四階は東西九間、南北六間で、三階同様に石打棚があり、 武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に二ヶ所、計四ケ所ある。
五階は東西九間・南北六間で、大広間一室のみで四重目の屋根裏部屋に相当する。  東西の大柱はこの階の天井まで通っている。 
六階は最上階で、東西七間、南北五間で、一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。
部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。 
ここには長壁神社(おさかべじんじゃ)が祀られていた。

「 長壁神社は、播磨国大社二十四社の一つで、 光仁天皇の皇子、刑部親王が主祭神、親王の王女、富姫を配祀する神社である。 」

長壁神社の由来

「 刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、 親王の王女という富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去した。  国司の角野氏がこの二人を守護神として姫山に祀って以来、 代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた。  天正八年(1580)頃、羽柴秀吉が姫路城の改築を始めた際、縄張り内に位置するために城下に移され、 播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られた。  江戸時代になり池田輝政が姫路城に入城した際、輝政が病に倒れると、 神社を移した祟りと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建された。  寛永十六年(1639)、藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、 慶安二年(1649)、榊原氏に変わると城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存となった。 」  

扉
     武具掛      長壁神社
鉄板鋲打ちの扉
武具掛
長壁神社



殿さまになった気分で西方を見ると、屋根瓦の左先に三国堀があり、菱の門が見える。

「 菱の門は二の丸入口にある櫓門で、現在では正面登閣口から入って最初に通る門である。
西側にある石垣と土塀で枡形虎口を形成し、門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、 西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。
門名は冠木に木製の花菱模様が装飾されていることや築城以前に流れていた菱川に由来するといわれる。 
下で見ないと分らないが、柱、舟肘木、長押を表面に出した真壁造りで、安土桃山時代の意匠を残している。 
櫓二階部分の中央に黒漆と金箔で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、その右手に庇出格子窓がある。 
三国堀は江戸時代には空堀だったようで、敵が押し寄せてくると堀に落ちるという仕掛けだったという。 」

その先にはぐるりと囲む曲輪群が見えるが、その中にあったのは西の丸である。

「 西の丸は、本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に整備、拡張した曲輪で、 千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、 これらの建物は残っていない。  」

上部右端に見えるのは北端に位置する化粧櫓で、左側にあるいくつかの櫓とこれらを結ぶ渡櫓(長局)が目に入った。

「 化粧櫓は千姫が池田忠政の嫡男、忠刻に輿入れする際の化粧料十万石で、 元和四年(1618)に建てられた。 
、 外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が三室に区分され、床の間がある奥御殿になっている。  戦前の修理までの化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。 
渡櫓の城外側は、幅一間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約百二十一間(約240m)に渡って、 連なっている。  そのことから百間廊下と呼ばれ、城外に向けて石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。 
城内側には侍女達の部屋があり、主室と付属室などに区分され長局を構成している。 」

西側風景
(左下)菱の門と三国堀(上部)西の丸跡と北曲輪群、(右下)二の丸と小天守



大天守の屋根の鯱は貞享四年(1687)の鯱を基に昭和の大修理の時に製作、据えられた鯱だが、 現在は平成の修理の際に作成された鯱に代わっている。
鯱は通常、雌雄一対(阿吽)だが、基にした貞享の鯱が雌だったため、 大天守の十一の鯱は全て雌となっている。  なお、天守以外の櫓の屋根にも鯱が載せられていた。 
城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が城全体で現在約千個残っているといわれ、 形は丸、三角、長方形の穴で、長方形のものが矢狭間、その他は鉄砲狭間である。

「 開口部の内側と外側に角度を付けることで、敵を狙いやすく、敵には狙われにくくしている。 また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。  長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、 さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。 さらに天守の壁に隠した隠狭間、門や壁の中に仕込まれた石落としなど、 数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。 」

鯱
     狭間      隠狭間と石落とし
大天守屋根の鯱
城壁の狭間
隠狭間と石落とし



小天守は東小天守、乾小天守、西小天守と三基あった。

「 東小天守は三重三階、地下一階で、天守丸の北東に位置し、西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。  建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。 
乾小天守は三重四階、地下一階で天守丸の北西に位置し、建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。 秀吉が築城した三重天守という説があり、昭和の大修理では秀吉時代の木材が転用されたことが確認された。 
乾小天守の火灯窓には「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき 未完成状態を保つため格子を入れていないという。 
西小天守は三重三階、地下二階で天守丸の南西に位置し、水の六門が付属している。  建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。 火灯窓は後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られるが、 釣鐘のような形の火灯窓を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。 
イ・ロ・ハ・ニの渡櫓は大天守と小天守を繋ぐのが渡櫓で、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、 大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られている。 
イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも二重二階・地下一階、ニの渡櫓は水の五門が付属して二重二階の櫓門になっている。 
天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり、大天守地階とロの渡櫓一階を繋いでいる。 」

本丸跡より一段下がったところは上山里丸(かみのやまさとまる)である。

「 上山里丸は備前丸の石垣と二つの出入口の門、周囲をぐるりと多門櫓と隅櫓等の建物で囲まれていたが、 江戸時代にも庭のようなもので御殿のような建物はなかったようである。 」

広場の一角にお菊井戸と呼ばれる古い井戸がある。
播州皿屋敷で知られるお菊が責め殺されて投げ込まれたと言われる井戸で、 もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていた。

「怪談話」
「 室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取るため、 城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てていた。  それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は愛人のお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、 鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出した。  この知らせを聞いた元信は花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができた。  その後もお菊は鉄山の屋敷で動向を探り続けていたが、 鉄山の同志、町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいました。  以前からお菊に好意を持っていた弾四朗は「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄ったが、 お菊は聞き入れず、弾四朗に折檻される。  言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、 お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠して、その罪をお菊に負わせ、お菊を切り殺し、庭の井戸に投げ込んだ。  それからというもの、夜毎井戸の底から悲しげな女のか細い声で  「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」 と、 皿を数える声が聞こえるようになった。 」 といい、お菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われている。 」 

乾小天守と東小天守
     上山里丸      お菊井戸
乾小天守と東小天守
上山里丸
お菊井戸



二の丸に向うと一段下がったところに脇戸付きの鉄板張り二重櫓門の「ぬの門」がある。

「 ぬの門は上山里丸の入口にある門で、折廻渡櫓から直接接続した櫓門で、 門の上には二階建ての櫓がのっていて、一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓がある。
門内側から見ると、折廻櫓の入口から櫓門の渡櫓部の二階に直接入れるようになっている。  ぬの門の扉、柱、冠木などはすべて鋲留めで鉄板が張ってあり、 櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっているので、頭上からダブルでの攻撃ができる。 
門外は折れ曲がりの縄張が採用されていて、菱の門前と同じく外側の高麗門が省略された形の枡形になっているので、 櫓門のすぐ前の空間が狭い四角形になっていることで、攻め手側の攻撃力に相当のダメージを与えることは間違いないだろう。 」

東側石垣に巨石を置いて鏡石としているが、この門がいかに厳重な守備力を持っているか実感できる。 
この下の二の丸は秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっていて、通路は迷路のように入り組んでいる。

「 二の丸には菱の門をはじめ多くの門や櫓が配置され、相手が侵入しにくいように造られている。  また、侵入してきた相手を狭い通路や小さく区画された部分に追い込み、味方が戦いやすいようになっている。 
菱の門にある三国堀は姫山と鷺山の間にあった谷を利用して作られた捨て堀で、 輝政の所領、播磨、淡路、備前の三国に由来する。
姫山と鷺山から流れた雨水を濾過する役割があったとも、秀吉の時代は空堀だったともいわれる。 」

現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの菱の門から まっすぐ「いの門」、「ろの門」、「はの門」の順に進めば天守へ近いように思えるが、 実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門・「るの門」から進むのが近い。

「 るの門は天守への近道となる門で、門の造られている石垣全体が城内側に若干振られるように造られている。  そのため菱の門からはこの門は見えなくなっていて、ここを通る道は「間道」といわれている。 
「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めないし、 「ほの門」は極端に狭い鉄扉で、その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。

い、ろ、は・・・と続くルートを上道(うわみち)、 そして、ぬの門から上山里丸、帯曲輪を経由して本丸に登るルートを下道(したみち)と呼んでいた。

「 上道は本丸に登る公式ルートで、輝政時代に備前丸の御殿に賓客をお迎えするときなどには使われたが、 城主などが日常的に本丸に達するためには下道を使っていた、と言われている。 」

ぬの門は下道をおさえる最後の守備の関門で、上道のにの門と並び、 城内で最大規模の門の一つで、姫路城随一の鉄壁の守りを持つ門である。 
備前門は、築城の際、石不足のため当時姫山にあった古墳の石棺を石垣に使用した。
門右手の縦石は石棺が使用されているというが、門前の狭い空間の中で、 デザイン的にすっきりとした印象を与えている。 
右手の建物は井郭櫓で、監視目的の与力窓がある。  また、左手の石垣は備前丸の石垣で、備前門へ押し寄せる敵への横矢掛り(側面攻撃)として機能したのだろう。 

折廻渡櫓、ぬの門
     ぬの門の石垣      備前門
(左)折廻渡櫓(右)ぬの門
ぬの門の石垣
備前門



所在地:兵庫県姫路市本町68  
JR山陽本線・山陽新幹線姫路駅・山陽電鉄山陽姫路駅から徒歩約20分  
姫路城のスタンプは料金所の西側の姫路城管理事務所にて  



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かうんたぁ。