日本100名城 (56) 竹田城(たけだじょう)






竹田城は但馬の要衝に築かれた天空の城で、JR竹田駅の西方、標高約354mの古城山(虎臥山)の山頂部に築かれた城で、 縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名、虎臥城の名が付いた。 

「 竹田城は、嘉吉年間(1441〜1443)、但馬守護の山名宗全が家臣太田垣氏につくらせたのが始めである。 
羽柴秀吉の但馬攻めで落城した後は赤松広秀が入り、数年の歳月をかけて、現在見られるような総石垣の壮大な城に修築した。  しかし、広秀は慶長五年(1600)、鳥取城攻め失敗の責により、徳川家康から切腹を命じられ、城も廃城になった。 」

竹田城に行くには、駅の西側にある「竹田城址登山口」の石柱がある道を上っていく方法と それよりも南にある表米神社登山道の石段を上っていく方法があるが、 駅から徒歩の時は駅の西側を上り、帰りは表米神社経由で帰るのが一般的のようである。 
車の場合の駐車場は北側にあり、そこから山腹まで連絡バスがある。 
小生は時間の関係もあり、タクシーを利用し、竹田城中腹の駐車場まで行き、ここから出発。 
駐車場の右側に「遊歩道 大手門コース」の道標があり、「国史跡竹田城跡」と書かれた門をくぐる。 
そこから下に降りて、左折するとほぼ一貫して上り坂が続き、途中で左に大きくカーブし、 十五分程過ぎると右側に道標があり、その下には表米神社からの登城道がある。 

竹田城址登山口
     門      表米神社登城道
竹田城址登山口
「国史跡竹田城跡」と書かれた門
表米神社登城道



「史跡竹田城跡」の大きな案内図がある。

「 竹田城は、南北約四百メートル、東西約百メートルの地形に、 最高所のほぼ中央に天守台を置き、本丸、二の丸、三の丸、南三の丸を連郭式に配し、 大手口を防衛する枡形虎口に沿う北千畳と搦手口のある南千畳を双翼とした、縄張で、 天守台の北西部には花やしきと称する曲輪がある。  南千畳曲輪の下には大小十本の竪掘群がある。  竪掘とは敵が攻城した時に敵兵士が横移動出来ないようにする遺構で、 連続した竪掘によって表面が凸凹する形状から、畑の畝に例えて、畝状竪掘と呼ばれているが、 これらの遺構群は戦国期の竹田城の一部であろうと見られている。 
また、城郭の周囲には現状の石垣より古い時代の遺構である堅堀も確認できる。 
竹田城は築城した太田垣氏の時代は土で造成して造られていた。  現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、赤松広秀の時代で、 文禄元年から慶長五年(1600)に改築された時期からである。 
現在の竹田城は赤松広秀が総石垣に作り替えられた城郭であるが、太田垣氏時代の遺構も一部残っている。 」

竹田城の縄張図
竹田城の案内図



竹田城の見学は一方通行で、その先の左側に竹田城見学道の出口がある。 
そこからは坂は急になり、約十分で竹田城跡の料金所に着いた。  なお、駅からの登城道を上ってきた人はここに出てくる。 
日本100名城のスタンプはここで押せる他、竹田駅構内にある和田山観光案内所にも置かれている。 
料金を支払うと「国史跡竹田城跡」の石柱が直登のような石段がある。 
ここを上ると見事な石垣が両脇に現れるが、大手門跡で、石垣は構築技法から見て穴太積を採用している。 

「 穴太積は近江国坂本を中心に発達した石垣構築法の呼称で、積み方からいえば野面積みの一種である。  野面積みは加工を施さない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見すると粗雑に見えるが、 水はけがよく、くずれを防ぐ。 」

右側にある空地は北千畳曲輪である。 

「 竹田城の特徴としてあげられるのは北千畳曲輪、南千畳曲輪、 花屋敷曲輪の三つの曲輪群の標高が三百三十一メートルとほぼ同じ高さに作られていることである。  本丸の標高は三百五十一メートルなので、標高差は二十メートルである。  このことにより、三つの曲輪群が平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされていてことが分かる。 」

竹田城入口
     穴太積の石垣      北千畳曲輪
竹田城入口
大手門跡
北千畳曲輪



北千畳曲輪から三の丸にかけて枡形虎口が敵の進入を防ぐ役割を果たしていた。 
三の丸は変わった形をした曲輪だが、地形を活かし北側の入口に枡形虎口を配し、 中央には東に向ってコの字に掘られており、その下には古い時代の遺構である堅堀が下に向って続いている。  また、西側は下に向って絶壁になっていて、地形を利用した要塞であることが分かる。 

枡形虎口
     展望台のある山      三の丸跡
枡形虎口
竹田城が望める対岸の山
三の丸跡



三の丸の先の左側に二の丸はあるが、ここからは細い道になって、本丸の下まで続いている。 
三の丸の左側に石垣が見えるがこれが二の丸である。 
左側に坂があり、両脇が石垣になっているが、ここに二の丸への虎口があったのだろうと思った。 
左側の石垣には石段があり、かって楼門があったのかもしれない。 
二の丸は三の丸より狭い面積で、羽子板のような形になっていて、本丸下に続いている。 
奥の小高い石垣は本丸天守台である。 

三の丸の道
     二の丸入口      二の丸跡
三の丸の道、左は二の丸、奥は本丸
二の丸入口
二の丸跡 奥は本丸、天守台



二の丸から見ると本丸、天守台の左に一段下がって南二の丸、更に下がって南千畳曲輪がある。 
本丸石垣は天守台南側の石垣で、高さは十・六メートルである。 
本丸へは人工で造られた階段を上がる。 
本丸は標高約三百五十四メートルの古城山(虎臥山)の山頂部に築かれ、その正面に天守台がある。 
天守台への登り口には石段や穴蔵がないので、 天守脇の付櫓か、本丸にあった建物と連結して、その内部から階段等によって天守に登ったと思われる。 
天守台は少しいびつな形の約十一メートル×約十三メートルで、 天守台には二層か三層の天守が建っていたようで、いくつかの礎石跡が確認でき、 柱間は六尺五寸の京間で建てられたとされる。 
天守台下の高見殿曲輪(本丸)には本丸御殿があったと推定されている。 

二の丸から南千畳曲輪、南二の丸
     本丸石垣      天守台
二の丸から南千畳曲輪、南二の丸
本丸石垣
天守台



天守から西を見ると、南二の丸や南千畳曲輪の石垣や櫓跡と思える遺跡が見えた。 
本丸から南二の丸に向うと、立派な石垣があり、石垣の傾斜には算木積みが使われている。 

「 算木積みとは、石垣の出角部分において、長方形の石の長辺と短辺を交互に積んでいく技法である。  これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなる。 竹田城では、天守、本丸、北千畳など多くの場所で、 算木積みを確認できる。 」

降りたところは平殿で、その右手(南西側)には「花屋敷」と呼ばれる曲輪がある。 
更に一段降りると、南二の丸である。 

「 南二の丸は平成二十五年(2013)から遺構や下草の保護を図るため立ち入りを禁止していたが、 踏圧のダメージが軽減されたことで下草が生え、樹木の状況も改善、  遺構の露出も起きない状況にまで環境が回復したことから、平成三十年(2018)八月から見学できるようになった。 」 

本丸石垣
     南二の丸虎口      南二の丸跡
本丸石垣
南二の丸虎口
南二の丸跡



その先にあるのが南千畳曲輪と南二の丸を仕切る虎口跡である。 
そこを抜けると一面広々とした広場に出るが、ここは南千畳曲輪である。 
かって一本の大きな唐松があったというが、見学者が根元を踏みつけたため、枯れてなくなったという。 
見学者の道には杭とロープが張られていて、それ以外のところには行けなくなっていた。 
振り返ると本丸、南二の丸などの石垣群がで〜いんと鎮座していた。 
南千畳曲輪の出口には搦手口の門があったようであり、石垣が残っていた。 
そこを下ると、先程歩いてきた道に出て、竹田城の探訪は終了した。 

南千畳曲輪虎口跡
     南千畳曲輪跡      搦手口門跡
南千畳曲輪虎口跡
南千畳曲輪跡
搦手口門跡



所在地:兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山169 
JR幡但線竹田駅から徒歩約60分 
日本100名城の竹田城のスタンプは竹田城跡料金所又は竹田駅構内の和田山観光案内所にて  



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かうんたぁ。