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橋を渡ると大手門(追手門)がある。
寛永五年(1628)に徳川幕府により創建られた枡形門で、
天明三年(1783)に落雷によりその先の多聞櫓は焼失したが、
大手門は類焼を免れた貴重な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
なお、門の左右に接続する大手門北方塀、大手門南方塀も重要文化財に指定されている。
「 大手門は正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、 親柱それぞれの背後に立つ控柱との間にも屋根を乗せた高麗門である。 屋根は本瓦葺で、扉や親柱を黒塗総鉄板張とする。 開口部の幅は約五・五メートル、高さは約七・一メートルで、 親柱、控柱の下部はその後の腐食により根継が施されているが、 中でも正面右側の控柱の継手は一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。 」
門をくぐると約四十米X五十米の枡形のスペースになっていて、正面には大きな石が石垣にはめ込まれている。
説明板「大手口枡形の巨石」
「 枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。
築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、
大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。 」
大手門をくぐって正面に位置する大手見附石は表面積が約二十九畳敷(47.98u)で城内第四位、 左の大手二番石は約二十三畳敷(37.90u)で第五位、右の大手三番石は約二十二畳敷(35.82u)で第八位、 いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。
「 現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、 元和六年(1620)から約十年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、 石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。 この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠宏(かとうただひろ)が築き、 のちに筑後久留米藩主有馬豊氏(ありまとようじ)が改築した。 」
その先にあるのは二の門といえる多聞櫓(渡櫓型の櫓門)である。
説明板「重要文化財 多聞櫓」
「 大手口枡形の石垣の上に建つ櫓で、
大門の上にまたぐ渡櫓とその右側に直角に折れて接続する続櫓によって構成される。
寛永五年(1628)に創建られたが、天明三年(1783)に落雷によって焼失し、嘉永五年(1848)に再建された。
土塁や石垣の上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、戦国時代の武将松永久秀が築いた
大和国多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来する。
現存する多聞櫓の中で最大級で、高さは約十四.七米、総面積は約七百十・二五uである。
渡櫓内部には七十畳敷を最大とする部屋が四室、続櫓内部には廊下のほか九畳、十二畳、十五畳の部屋が計六室あることから
多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、
また大門をくぐる敵を真上から攻撃する槍落しの装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。
大阪城の二の丸には京橋口、玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。 」
一の門(高麗門)をくぐって左側は二の門(多聞櫓門)だが、かっては右側(南側)にも市多聞と呼ばれた多聞櫓があった。
「 江戸時代、大坂城の大手口枡形には現存する多聞櫓のほか、 南側に東西十三間五尺、南北三間の独立した多聞櫓が建っていた。 大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、 この櫓の中で一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、 市多聞という名がついた。 明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。 大手門から南にのびて東に折れる塀のうち、市多聞跡と重なる部分は市多聞焼失後に築かれたものである。 」
多聞櫓をくぐると千貫櫓や乾櫓、二の丸庭園が左手にあるが、土曜と日曜日に有料公開しているが、
訪れたのは月曜日なので入れなかった。
二の丸庭園入口前から本丸へ進むと石塁にはさまれた南仕切門跡に出る。
説明板「南仕切門跡 太鼓櫓跡」
「 二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。
また、この門の西側石垣上には太鼓櫓と呼ばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による
大坂城再建工事の最終段階に当る寛永五年(1628)に創建されたと考えられる。
太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。
ここには太鼓坊主と呼ばれる僧形の役人が交替で詰め、彼らは香をたいて時刻を計り、
城内勤務の大名や旗本以下の召集や交代、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。
いずれの建物も慶応四年(明治元年1868)、明治維新の大火により焼失した。
仕切門とは城門を突破して侵入してきた敵勢をくいとめるために設けられた石塁につけられた城門のことである。
徳川時代の大坂城二の丸には五ヶ所の仕切門が設置されていた。
明治以降、全体ないしは部分的に撤去された箇所が多いが、
この仕切門跡はかっての石塁がほぼ完全な形で残っている唯一の箇所である。
太鼓櫓は二間四方の小規模な櫓であった。
これらの建造物は全て戊辰戦争時の火災で焼失しているが、石組みの損傷も激しく石塁は解体修理を受けている。 」
南仕切門跡の先を右に入ったところに「石山本願寺推定地」の標柱と説明板が立っている。
「 明応五年(1496)に本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
天文日記によると、大坂坊舎は生玉八坊のひとつ、法安寺の東側に建立されたといわれ、
当時は小堂であったと考えられる。
天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により、山科本願寺が焼き打ちに及んで、
本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺の周辺は広大な寺内町が造成された。 この造成が現在の大坂の町並の原形になったと考えられる。
その後、十一世顕如の時代に、織田信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去し、京都堀川に本拠を移した。
一方、石山本願寺の跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。
この時に大規模工事により地形がかなりの改造が加えられた考えられる。
更に徳川幕府の大坂城で再び大きな土木工事が行われるので、石山本願寺の跡地や伽藍の跡は明らかになっていないが、
大坂城公園内であるといえる。 」
標柱の奥には六番櫓があり、南外掘に面している。 また、左手には修道館が建っていた。
道に戻ると左側は空堀でその先には本丸の石垣が続いている。
その先の右手は豊国神社、左手は桜門である。
説明板「重要文化財 桜門
「 桜門は本丸の正面にあたる。
徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永三年8(1626)に創建されたが、
慶応四年(=明治元年、18689に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治二十年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。
左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和四十四年(1969)に復元されている。
桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、
門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。
ただし、豊臣時代の大坂城は徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、
桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。
なお門の両脇に見える巨石は龍虎石(りゅうこいし)と呼ばれ、
江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。 」
桜門は本丸への正門であり天守閣の真南に位置している。
「 豊臣時代、この門の前に立派な桜並木があったことからこの名前で呼ばれることになったというが、 現在の桜門は枡形、土橋等を含め全てが徳川時代に再建されたものである。 桜門はもとより渡櫓、渡門、続多聞など全て明治維新の際に焼け落ちており、 本丸広場には明治十八年(1885)、和歌山城から紀州御殿が移築され大阪鎮台の庁舎として使われており、 明治二十年二月、大阪城に行幸された明治天皇はこの御殿を行在所とされている。 この行幸に際して陸軍は本丸正面の威厳を整える目的から桜門を再建したと考えられている。 また、桜門両側の塀は明治維新の時焼失したままになっていたが、 昭和四十四年(1969)の桜門修理時に復元されている。 」
桜門を入ると枡形で、左脇に銀明水と呼ばれる井筒が据えられているが、元々は桜門枡形内には井戸はなく、 この井筒は旧大阪市立博物館の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものだった。
「 この井筒は元来本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部庁舎(旧大坂市立博物館)の裏手にある銀明水の
ものである。 銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた五つの井戸の一つで、
本丸御殿台所裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として使用された。
昭和六年(1931)大坂城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石は
現在地に移され、飲料水の水道が引かれた。 」
桜門の内側は本丸の正面入口を守るため、「枡形」と呼ばれる石垣を四方に囲んだ区画が設けられ、 上部に多聞櫓が建てられた。 桜門の枡形巨石群である。
「 この枡形は徳川幕府の大坂城再築工事の第二期が始まった寛永元年(1624)、
備前岡山藩主池田忠雄(いけだただお)の担当によって築かれた。
石材は備前産の花崗岩が用いられ、正面の石は蛸石と呼ばれる城内第一の巨石で、
表面積はおよそ三十六畳敷(5943平行メートル)、重量は約百八トンと推定される。
向って左側の巨石は振袖石と呼ばれ、表面積はおよそ三十三畳敷(5385平行メートル)、城内で第三位。
碁盤石(第6位)、桜門四番石(第9位)、龍石(第10位)と城内の巨石ベストテンの内、
実に半分がここに集中している。
なお、上部の多聞櫓は慶応四年(明治元年1865)の明治維新の大火で焼失した。」
この枡形石垣は戊辰戦争時の火災による傷みが激しく、また陸軍が戦時中、
本丸地下に掘った防空壕の陥没などから東端部に倒壊の恐れが出てきたため解体修理を受けている。
その先は本丸御殿があったところで、今は三台の車が露天を出している広場になっている。
その先に復興天守が建ち、その前には残念石があった。
「 徳川幕府が再築した本丸と天守は、江戸城の本丸と初代天守の配置と同じように建てられたと見られている。
天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが、小天守は造られず、天守曲輪のような状態であった。
また、天守へは本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていたという。
天守は五階地下一階の独立式層塔型五重で、初代江戸城天守を細身にしたような外観で、
白漆喰塗籠の壁面、高さは天守台を含めて約五十八メートルだったと思われる。
完成したのは寛永三年(1626)で白漆喰総塗籠の天守である。
万治三年(1660)、城内に落雷があり、火薬庫が爆発し、天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊した。
その後、再建されたが、寛文五年(1665)に落雷により天守を焼失し、以後は天守を持たない城になった。 」
現在建っているのは昭和六年(1931)にされた復興天守である。
「 復興天守は徳川時代の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、
五層八階(入口のある1階部分は地下)の鉄骨鉄筋コンクリート構造の建物を建設した。
天守台と鯱を含め高さは五十四・八メートルである。
大坂城の復興天守は初層から四層までは徳川時代風の白漆喰壁としたが、
五層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いている。 」
天守閣の下に「残念石」と書かれた説明板がある。
「 この石は元和元年(1620)から始まる大坂城修復の時、天領小豆島で割られたまま用材石としての念願がかなわわず、 今も数多く残されていることから残念石と呼ばれている。 この大きな石は越前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手によるものである。 」
復興天守は博物館になっていて、入口は南側、近くに金明水井戸屋形がある。
また、右手の内堀近くには金蔵がある。
説明板「重要文化財 金蔵(かねぐら)」
「 江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫として役割を果たした。
宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断、改造して築造され、
以来、北西側に以前からあった金蔵を元御金蔵(もとごきんぞう)、この金蔵を新御金蔵(しんごきんぞう)と呼んだ。
高さは約五・八メートル、面積は約九十三平方メートルで、内部は大小二室からなり、
手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。
構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、
小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。
なお元御金蔵は、明治二十五年(1892)の配水池建設にともなって今の金蔵の東隣に移築され、
さらに昭和四年(1929)、陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築され、のちに焼失した。 」
復興天守の左側に「天守下仕切門跡←」の説明板がある。
「 天守台の西側は石組によって南北隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。
北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため、両側の石垣を行き違いとし、その為門は東に向いていた。
江戸幕府が大坂城再築の時築いたもので、明治維新の大火により石垣上の塀とともに焼失したと考えられる。 」
山里口出桝形があり、説明板がある。
「 本丸と山里丸との道路を結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。 外敵に備えるための石組みに囲まれた四角い区画を枡形というが、 特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出桝形という。 南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里門があったが、いずれも明治維新の大火により 石垣上の塀とともに焼失したと考えられる。 なお、西は埋門となっていて、隠し曲輪に通じている。 」
隠し曲輪は大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、石垣のところどころに刻印を見付けることができる。
説明板「隠し曲輪」
「 大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築のものである。
出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に隠し曲輪と呼ばれた。
一時幕府の塩硝蔵(火薬庫)が置かれていたこともあり、立ち入りが禁止されていたことから、
ここに秘密の抜け穴があるとの伝えも生まれた。
ここでは石垣を担当した加藤家(大洲藩)、小出藩(丹波園部藩、但馬出石藩)の刻印を間近で見ることが出来る。 」
出枡形の東部は淀君と秀頼が自害した山里丸があったところである。
また、北に通じる内掘に架かる橋は極楽橋といい、その先は京橋口である。
豊臣秀吉が淀川左岸を改修して堤防上に築いた京街道は、最初は大坂城の京橋口が起点だったが、
江戸幕府が制定した東海道五十七次からは高麗橋東詰に起点が変わった。
山里口枡形の手前から天守を見ると枡形の石垣越しに勇壮な姿に見えた。
本丸の南に向って東の内堀に沿って歩き、南に鎮座する豊国神社にお参りをした。
「 豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長を御祭神とする神社で、 明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際、国家のために多大なる功労を残した豊臣秀吉を大阪の清らかな地に奉祀するよう 仰せになったことから、明治六年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、 大阪には明治十三年に別格官幣社豊國神社の別社として創立され、昭和三十六年一月に現在の地へ奉遷された。 」
境内には豊臣秀吉の銅像が建っていた。
所在地:大阪市中央区大坂城1−1
JR大坂環状線森ノ宮駅・大坂城公園駅から徒歩15分
地下鉄中央線谷町四丁目駅から徒歩約15分
大坂城のスタンプは天守1階のインフォメーションにて