日本100名城 (52) 観音寺城(かんおうんじじょう)
観音寺城は佐々木六角氏が繖山(きぬがさやま)全域に築いた巨大山城で、
湖東平野の中心にある標高約四百三十三メートルの繖山の南半分を中心に築かれていた。
南麓は中山道に面し、西麓は琵琶湖に面する、水陸交通の要衝に位置する位置である。
現在は山頂に観音正寺が建ち、全域に石垣を多く含む山城遺構が残っている。
「 観音寺山に六角氏が城砦を築き始めたのは、南北朝の争乱の頃と記録されているが、
この時期の遺構は見つかっていない。
本格的に城郭としての整備が行われたのは応仁の乱以降と考えられ、
大永五年(1525)の六角定頼による江北出陣の際には、
城に留守居役を置くほど整備されていたようである。
天文元年(1532)には、足利将軍を迎えているので、この頃、居住性を重視した城がほぼ完成したと考えられる。
さらに、鉄砲の伝来による戦術の変化に対応し、1550年代頃に石垣を整備し、今日見られる城構えになった。
六角氏は南近江の守護職を任じられたが、応仁の乱以降、同族で北近江を支配する京極氏と対立する。
六角氏は京極氏とは違い、最後まで強力な戦国大名になれなかった。
この地区の自立性の高い国人層に対する支配権を維持するためには、連合政権的な支配形態をとらざるを得なかったためである。 」
観音寺城の構造は、その体質を表すように、南腹の斜面に家臣や国人領主の広い屋敷を配した多数の曲輪(郭)を展開しているが
、明確な防衛施設がなく、規模こそ大きいものの、非常に単純な構造になっていた。
このため、六角氏は有事に際しては、数度に渡り観音寺城に籠城、
また、足利氏による親征を受けるが、一時的に観音寺城を脱出し、また城を奪還するなど、戦うことはせず、
一旦退いて勢力の回復を待って、帰城する戦術を常とした。
「 永禄十一年(1568)、六角承禎が織田信長の攻撃を受け、戦わず城を放棄したことにより、
観音寺城は廃城になった。
現在、確認されている郭の数は、正確には把握されていないが、至るところに削平された平坦地を確認することができる。
本丸、平井丸、落合丸、池田丸といった郭の発掘調査の結果、
礎石を用いた大規模な建物跡、石組の水溜、石組の水路などの遺構が見つかっている。 」
観音寺城の主郭部や屋敷地に築かれた高石垣は、日本の城で初めて本格的に導入されたもので、
安土城の総石垣造の先駆をなすものとされる。
平井丸虎口の石垣は長辺二メートル以上の巨石によって築かれており、高さ約三・八メートル、
長さは約三十二メートルにも及ぶ。
本丸石垣は隅部の算木積などは未完成だが、初めて本格的に築かれて城石垣である。
観音寺城の詳細は
古城めぐり 観音寺城をご覧ください。
所在地:滋賀県蒲生郡安土町石寺ほか
JR東海道本線「安土駅」から徒歩約40分で登城口、登城口から「伝本丸跡」まで徒歩約35分
観音正寺の近くまで車で行くことができるが、冬季は車両専用道路が閉鎖されることがあるので、事前確認を要する
観音寺城のスタンプは、ここにはなく、安土駅前の安土城郭資料館(0748-46-5616 9.00〜17.00 月休、
祝日の場合は翌日休)にて
戻る(日本100名城表紙)
|