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右側の石垣の上にあるのはハ見寺である。 徳川家康邸の跡地に建てられている。
山腹部分は傾斜が最も急なところで、ジグザクに曲がりながら延びていた。
この付近は屈曲部分に平坦な踊り場を造らず、踏石列を扇状に展開させたのが特徴という。
若い者でも息をはずませながら上って行く。
老いの身には堪える石段であるが、石段の石がなにか変と感じて立ち止まった。
踏石の一部に 「石仏」 の表示があり、よく見ると仏の姿が彫られていた。
「 石仏は、築城の時に石材として使用されたものである。
城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取されたが、石仏や墓石等も含まれていた。
安土城は突貫で工事が進められたことと、規模が大きかったので、
石段に使う石を近郊の山々から採取するだけでは無理だったのだろう。 」
上っていくと、伝武井夕庵邸跡の石柱が建つところまできた。
「 武井夕庵は、美濃土岐氏、斎藤道三を始め三代に仕え、 斎藤家滅亡後は織田信長に仕えて、祐筆(秘書役)となり、 信長の傍に仕えて、内外政に活躍した武将であり茶人だった。 」
このあたりから上には、森蘭丸などの小姓や茶人の屋敷が、多かったようである。
武井夕庵邸の北東付近から、大手道は東に屈曲し、
主郭部の外周を構成している高石垣の裾を廻っていく。
本丸に直接通じる本丸裏門に至る。
「 ここは215段目 天守閣跡まであと190段 」 の木札が、
大きな樹の幹に吊されていた。
これに励まされて上っていくと、
「織田信忠邸跡」 の石碑があるところに来た。
左側の一段高いところに「伝織田信忠邸跡」の碑がある。
「 織田信忠は、信長の嫡男で、信長に従って、各地に転戦する。
天正四年(1576)、信長が岐阜城から安土城に移ると、信忠が岐阜城主となる。
天正十年(1582)、甲斐国に攻め入って武田勝頼を討ち滅ぼす。
同年の本能寺の変の時、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、京都の妙覚寺に滞在していた。
明智光秀が信長の宿所の本能寺を襲ったことを知り、本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、わずかな軍兵で、明智軍と善戦を見せたが、
衆寡敵せずに自害した。 享年二十六才のことだった。 」
このあたりは四メートル程に狭まっているが、本丸裏門近くでは六メートルを越える広い道だった。
安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長線に見える天守閣は街道を行き交う人々に信長の存在を強くアピールしたであろう。
木立の中を進み、石段を登ると、道の脇に「織田信澄邸跡」と「森蘭丸邸跡」の石碑が建っている。
このあたりには信長の家族や家臣団の屋敷があったようである。
山の尾根づたいに北へ行くと八角平や薬師平に至る。
少し険しい先に、数段の石段があり、それを上ると 「黒金門跡
」の石碑が建っていて、
目の前に高く聳える、頑丈な石垣が連なっている。
ここは堅固な虎口をほこる黒金門があった場所である。
黒金門は、壮大な石垣を誇る二の丸への入口である。
説明板「黒金門」
「 黒金門は城下町と結ばれた百々橋道、七曲口道からの入口で、
この門から先は信長が選んだ側近達と日常生活を送っていた安土城の中枢部である。
この一帯は標高180mを越える安土山では最も高いところにある。
東西180m、南北100mに及ぶ周囲は高く頑丈な石垣で囲まれ、
周囲が屹立していた高石垣の裾を幅2〜6mの外周路が巡り、
山裾からの城内道と結ばれていた。 」
黒金門をくぐると右折し、石段を上ると左折して、 二の門 と呼ばれる門をくぐって、 城内に入るのが当時の姿だったようであるが、門は残っていない。
安土城焼失から百年後の貞享四年(1687)に著された 「近江国蒲生郡安土古城図」 に、 安土城の主郭部が描かれていて、 現在使われている名称は、 この古城図によるという。
「 高く聳える天主を中心に、本丸・二の丸・三の丸等の主要郭で構成されるこの一帯は、 標高百八十メートルを越える安土山では、最も高いところにある。 東西百八十メートル、南北百メートルに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲から屹立している。 信長が選んだ側近たちと日常生活を送っていたところである。 」
黒金門から天主に至る通路や、天主から八角堂への通路上には、 覆いかぶさるように建物が建ち並び並んでいたようである。
「 その下にある外周道の石垣は、
これまで見てきた石塁や郭の石垣に比べ、
使われている石が大きく、石垣が高い。
発掘調査では大量の焼けた瓦の中に菊紋、桐紋等の金箔瓦も含まれていたが、
天主と共に火災に遭っていることが確認された。 」
黒金門跡碑の前で右折し、高石垣を左に見ながら進むと、
左側に伝長谷川邸跡、右に進み、石段を二か所上がると右側に仏足石がある。
左手の狭い石段を上がると、「 二の丸址 」 「 織田信長公本廟 」 の石碑
が建っている。
ここは二の丸だったところで、奥まったところの常夜燈の先に、
豊臣秀吉が建立した織田信長廟がある。
「 信長廟は、 天正十年(1582)、京都大徳寺で信長の葬儀を執り行った羽柴秀吉が、 信長の菩提を弔うために建立したもので、 この時、「秀吉はハ見寺の住職は代々織田家縁のあるものが勤め、 信長の菩提を弔うようにといった」と、伝えられる。 」
下に降りて、右手に進むと、木立の中に広場がある。
天主を眼下に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、
安土城の本丸御殿があったところである。
説明板「本丸御殿跡」
「 この場所は千畳敷と呼ばれた本丸御殿の跡と伝えられる。
東西約五十メートル、南北約三十四メートルの東西に細長い敷地は天主台、
本丸帯郭、三の丸の各石垣に囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けている。
残された礎石から、天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似っている建物だった
と推測されている。
信長公記に、天主近くに一天の君万乗の主の御座御殿である御幸の御間と
呼ばれる建物があり、内に皇居の間が設けられたことが記されている。
天皇の御幸は実現できなかったが、この本丸建物こそ天皇御幸のために信長が用意した御幸建物だった。 」
その先の石垣の奥にあるのは三の丸の跡。
南に開けていたとされる展望は樹木に覆われて、
下界は一部しか見えなかった。
左手の天守に登る石段を進むと、途中に「天主台址」の石碑があり、 その先に石垣で囲まれた中に礎石が整然と並ぶ土地が、天主台跡 である。
説明板「天守跡」
「 安土城の天守台は、完成してわずか三年の天正十年(1582)六月に焼失し、
永い年月の間瓦礫と草木の下に埋もれていた。
昭和十五年の発掘調査により、厚い堆積土の下に天主を支えていた礎石を見付けた。
今いる場所は地階部分で、天主の高さはこれよりはるかに大きく、
二倍半近くあったが、石垣の上部の崩落が激しく、その規模の大きさは確認できない。
この礎石の上に、外観は五層、地上六階、地下一階の全七階の安土城の天守の建物が建っていた。 」
安土城天主は日本初の天守で、金の鯱を初めて乗せたのも安土城だと言われている。
「 天主の高さは約三十二メートルあり、当時として傑出した高層建築物だった。
外壁は三層目までが黒、四層目が朱、五層目が金箔。屋根瓦も赤・青・金箔瓦が使われていて、
桃山文化を代表する豪華絢欄な建築物だったといわれている。
天主の内部は狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、
当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれている。 」
近くにある「信長の館」には、
安土城天主の上部二階部分の復元したというものがあるので、
帰りに立ち寄った。
ここで日本100名城のスタンプをゲットした。
所在地:滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
JR東海道本線「安土駅」から徒歩約20分で登城口、登城口から天守台まで徒歩約25分
安土城のスタンプは、少し離れている安土城天主信長の館(0748-46-6512 9.00〜17.00 月休、祝日の場合は翌日休)
安土城郭資料館(0748-46-5616 9.00〜17.00 月休、祝日の場合は翌日休)にて