日本100名城 (50) 彦根城(ひこねじょう)
彦根城は、徳川四天王の一人、井伊直政が琵琶湖湖畔の磯山の地に城を築こうとしたことに始まる。
徳川家康は西の抑えと非常時に朝廷を守るため、近江国の彦根に
井伊直政を配したと伝えられる。
直政が死んだため築城は計画のみに終わったが、その遺志を継いで、
子の直継(なおつぐ)は、彦根山(金亀山)を城地と定めて、
慶長九年(1604)から天下普請で築城を開始し、慶長十二年(1607)に天守など主要部を完成させた。
築城は徳川家康により、天下普請により行われ、
佐和山城や大津城などの周辺の廃城から、用材や石材などを調達、急ピッチで進められた。
しかし、城下を含む城の完成には二十年あまりの年月を要した。
彦根城は本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪で構成された連郭式平山城である。
天守は京極高次が城主を務めた大津城の四重五階の天守を移転し、三重に縮小したもので、
牛蒡積み(ごぼうづみ)といわれる石垣で支えられ、その上に通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた
三層三階地下一階の複合式望楼型の天守である。
各層に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置していて、変化に富む仕上がりになっている。
また、地下階の窓は突上窓、一階以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には外廻り縁と高欄を付けている。
天守三階には破風の間という小部屋があり、鉄砲狭間がある。
階段は敵が中に攻め入っても、のぼってくる敵を上から突き落せるように急な角度(62度)になっている上、
はしごのような階段はただ上の小さな掛かりが掛かっているだけなので、
敵が登らんとすれば、蹴って階段を落とす構造になっている。
彦根城は戦のための城として造られていて、壁の鉄砲穴も、外からは見えない構造で作られている。
時代劇の撮影などにも使われる天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、
長い多聞の左右の端に二重二階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。
長浜城から移築したといわれる天秤櫓は、安政元年(1854)に大修理が行われ、
その時、石垣の左半分が「落し積み」の石垣に積み直されたので、
天秤櫓の向かって右が「牛蒡積み」、向かって左が「落し積み」という「登り石垣」になった。
城の東北部には彦根藩主の隠居所(下屋敷)である槻御殿があった。 今も奥書院だった建物が御書院として現存していて、
その南側には楽々園と玄宮園という大名庭園があり、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。
江戸時代、これらの庭園は松原内湖に面し、入江内湖も望めたが、今は埋め立てられて、
琵琶湖へは細い水路になっているだけである。
玄宮園は延宝六年(1678)に下屋敷に付随して造園した、池水を中心とした回遊式庭園である。
庭園から茶室の風翔台越しに見える彦根城天守閣は絶景である。
彦根城の詳細は
古城めぐり 彦根城・佐和山城をご覧ください。
所在地:滋賀県彦根市金亀町1−1
JR東海道本線彦根駅から彦根城の表門橋までは徒歩約10分
彦根城のスタンプ設置場所:二の丸駐車場脇の彦根市開国記念館内彦根城管理事務所(8時30分〜17時 0749-22-2742)
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