日本100名城 (48) 松阪城(まつさかじょう)
松阪城は築城の名手といわれる蒲生氏郷が、
海に面した松ヶ島城に代わる城として、松阪市北部に位置する独立丘陵上に築城した城である。
「 蒲生氏郷(がもううじさと)は、近江国日野の出身で、織田信長の寵愛を受けた部将である。
蒲生氏郷は、天正十六年(1588)、近江の石工など、技術者集団を引き連れ、
安土城とよく似た縄張や建物構成をもつ梯郭式平山城を築いた。
蒲生氏郷により築かれた松阪城は、城北を流れる阪内川を天然の堀とし、本丸には三重の天守をはじめ多くの櫓を建て、
各曲輪に豪壮な石垣が築かれた城であった。 また、信長に倣い、楽市楽座を設けるなど城下町を整備し、地名を松坂(今は松阪)と名付けた。
氏郷が陸奥国会津に転じた後、服部氏、古田氏を経て、元和五年(1619)八月、
南伊勢は紀州藩領となり、伊勢領十八万石を統括する代官が派遣され、
松阪城は南伊勢を統括する城として城代が置かれた。
一国一城令の影響もあり、城内の天守以下の櫓や門等の建物は修理されなくなっていった。
天守は正保元年(1644)、台風のため倒壊し、以後は天守台のみが残ることとなった。
寛政六年(1794)、二の丸に紀州藩陣屋が建てられ、以後、派遣された代官が当地を統治し、明治維新を迎えた。
明治四年(187)の廃藩置県により廃城となり、明治十年(1877年)には失火により二の丸陣屋を焼失、
明治十四年(1881)頃には他の建造物も概ね破却されたといわれる。 」
現在、松阪城の本丸、二の丸跡は城址公園となっている。
松阪城の表門は枡形になって、そのことを示す石組が残っている。
正面に見える石垣は本丸下段の多聞櫓の石垣で、 右側に「史跡松阪城跡」の石碑が立っている。
右に行くと歴史民俗資料館があり、日本100名城のスタンプが置かれている。
左手に石垣に沿い進むと、江戸時代には土戸御門があり、その先には二の丸があった。
「 二の丸は徳川陣屋と呼ばれたようである。
寛政六年(1794)、二の丸に紀州藩陣屋(徳川陣屋)が建てられ、 以後、派遣された代官が当地を統治し、
明治維新を迎えている。
明治四年(18711)の廃藩置県により、廃城となり、明治十年(1877年)には失火により二の丸御殿が焼失、
明治十四年(1881)頃には他の建造物も概ね破却されたといわれる。 」
松阪は梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている。
巨石を交えた高石垣が、二の丸、本丸、本丸上段と、階段状に築かれている。
「 安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松阪城にもこの時の石垣作りが取り入れられている。
石垣のつみ方は野面積みを主体に、隅の部分は切り込みはぎ、算木積みという工法が使われている。
これらの工法は穴太衆と呼ばれる近江国の石工集団がこれまでの日本にはなかった石積み工法を開発し、
安土城で実践したもので、氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地元の農民をかり出し石垣をくみ上げていった、といわれる。 」
天守台石垣は不等辺四角形をなし、本丸上段から突き出す形で築かれている。
また、東側(右後方)には一段低い付櫓台が付設されている。
石材の多くは近くの河原から集められた石が使われたが、
天守台などには古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用された。
希代丸や隠居丸などの曲輪の周囲は、江戸時代に多聞櫓が築かれ、その下には高石垣が造られていた。
本丸の南東に位置する裏門の左手の小高い所は隠居丸跡で、
本居宣長(もとおりのりなが)の旧宅(鈴屋)が市内から移築されている。
「 本居宣長は松坂に生まれた江戸中期の国学者で、医師、代表作は古事記の詳細解説本で、
記念館には本居宣長が解読した古事記の写本原本(国重文)などが収蔵されている。 」
裏門跡を出た先に石畳の両側に武家屋敷が並んだひときわ目を引く一画がある。
松坂城裏門跡と搦手門(竹御門)跡を結ぶ石畳の両側に、美しく整えられた槇垣を巡らした御城番屋敷がある。
「 御城番屋敷は松坂城を警護する松坂御城番という役職の武士二十人とその家族が住んだ武士の組屋敷である。
現存する江戸時代の武家屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物で、平成十六年、国の重要文化財に指定された。
松阪市はこのうち一戸を借り受け復元整備して平成二年より一般公開している。 」
この一角には隠居丸にあった米蔵が移築されているが、松阪城内に残る唯一の建造物である。
所在地:三重県松阪市殿町
JR紀勢本線・近鉄大阪線の松阪駅から徒歩約15分
松坂城のスタンプは松阪市歴史民俗資料館(0598-23-2381)にある
戻る(日本100名城表紙)
|