日本100名城 (47) 伊賀上野城
伊賀上野城は、筒井定次が築いた城を、藤堂高虎が大改修し、高石垣の城郭を造り上げた。
「 伊賀上野は北に服部川と柘植川、南に久米川、西側に木津川の本流が流れる要害の地である。
織田信長の天正伊賀の乱の際、伊賀衆の拠点になったのが平楽寺という大寺院だが、攻撃を受け焼け落ちた。
天正十三年(1585)、豊臣秀吉の家臣、筒井定次はその跡地に三重の天守がある平山城を築いた。
築城の名手といわれた藤堂高虎は慶長十三年(1608)、徳川家康の大坂城の豊臣秀頼にそなえる城を築く旨の命を受け、伊予から入封する。
高虎は、慶長十六年(1611)より城の大改修に取り掛かり、
上野盆地の上野台地の北部の標高百八十四メートルの丘に石垣や水堀を設け、城地を三倍に拡張し、
五重の天守も建てようとしたが、建築中に暴風雨で倒壊したため天守の建築は断念した。
外堀の土塁上には二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、
長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門は建てられた。
大坂城夏の陣で豊臣氏が滅んだため、それ以後の築城は中止され、
本丸、二の丸などの主要部は城代屋敷を除いて、未完成のままだった。
明治維新の廃城令により、石垣上の構造物の多くが取り壊されたため、
遺跡として残るものは本丸跡と石垣、堀の一部だけである。
昭和四十二年(1967)、旧城域一帯が国の史跡に指定された。」
大坂の陣が終わった後、高虎は交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城とした。
一国一城令で、上野城は伊賀国の城として存続が認められると、
高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、
文政八年(1825)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏が世襲した。
本丸西面の高石垣は大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣である。
「 慶長十六年(1611)に打込みハギ、算木積で積み上げられた直線的な石垣で、
根石より天端まで二十九・七メートルの高さ、三方に折廻して、延長三百六十八メートルに及ぶ。 」
本丸に櫓が建てられなかったが、城代屋敷は建てられ、藤堂家が明治まで使用続けた。
本丸跡に建つ天守は、昭和十年(1935)に、川崎克氏が木造、三重三階、二重二階の小天守を伴った連結式形層塔型模擬天守を建設したもので、
天守からは上野盆地の雄大な景色が一望できる。
所在地:三重県伊賀市上野丸之内106
近鉄伊賀線「上野市」駅から徒歩10分
伊賀上野城のスタンプは天守1階にある
城を含めた近隣一帯は、上野公園として整備されていて、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館があるほか、
伊賀流忍者博物館がある
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