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土居と堀 |
下の図は保存館周辺の当時の縄張図である。
保存館の奥に空掘があり、その奥に入っていくと空地が広がっている。
ここが長篠城の本丸跡で、一角に「史跡 長篠城阯」の石碑が立っている。
また、歴代長篠城主の説明板が立っている。
史跡長篠城阯碑 |
楓の木の下の石垣のある盛りあがったところには「土塁」の標示がある。
本丸はこのような土塁と水堀で防御されていたことが分かる。
土塁がきれるあたりに赤い小さな鳥居がある。
その先は金網に囲まれて、鉄道の線路が見える。
線路のフェンスに「野牛郭址 殿井(とのいど) 線路の向かい側の表示板がある。
飯田線が敷設される際、
長篠城の主郭である本丸と一段下の野牛郭の間に鉄道が通されて分断されてしまった。
この先の野牛郭には物見櫓、殿井と突き当たりに櫓があり、
その外側は断崖絶壁であった。
線路のフェンスに「鳶ヶ巣山」の表示板があり、「向い側山並みの左手高所、
武田軍の陣地跡」とある。 木が繁り確認ができなかったが・・
鳶ヶ巣山表示板 |
豊川(旧寒狭川)に面したフェンスに
「鳥居強右衛門磔死(たくし)の碑 対岸の平地にあります」という表示板があり、
また、「鳥居強右衛門磔の場所(寒狭川の対岸)」のプレートが立っているが、
草木が多く、川の流れも対岸も見渡すことはできなかった。
鳥居強右衛門は野牛郭の門を出て、対岸から岡崎城まで50kmを走り、
援軍の確約を取り付け、対岸の地で磔にされた。
フェンスに「矢沢 勝頼公本陣跡の医王寺より流れ込んでいる。
向い側が弾正郭」という表示板がある。
本丸の外に保存館のある地の帯曲輪があり、その外に矢沢が流れ、
その外に弾正郭があり、その外に大手曲輪があり、防衛していた。
その先に「長篠城本丸跡」と書かれた木標が立っていて、
その奥に「長篠合戦両軍陣歿将士諸精霊位」と書かれた木柱と石柱が立っていた。
長篠城本丸跡 |
長篠城は長篠の戦いの後の翌年、城主の奥平貞昌(信昌)により壊され、新城市に
移されたため、建物や門などは一切残っていない。
本丸付近には大規模な空堀と土塁が残っており、
天正元年(1573)に徳川家康が長篠城を奪取した後に大規模な修築を行った結果である
と考えられている。
また、飯田線のために本丸と寸断されてしまったが、本丸南には野牛曲輪があり、
ここの遺構はよく残っている。
しかし、城の北側のほとんどは埋没、破壊され、現在は畑地や宅地などになっていて、
一部に石垣の遺構を残しているのみである。
所在地:新城市長篠字市場22番地−1
JR飯田線長篠城駅から徒歩8分 新東名高速道路新城ICから5分
長篠城のスタンプは長篠城址史跡保存館の1階トイレ前にある。
長篠城址史跡保存館(0536−32−0162 火休、年末年始(12/29-1/3) 9時〜17時(入館は16時30分まで)