日本100名城 (46) 長篠城(ながしのじょう)








長篠城は武田勝頼と徳川家康との長篠・設楽原の戦いの舞台になった城である。 
長篠城は豊川と宇連川が深い谷をつくる断崖を背にし、さらに矢沢も加わり、 天然の要害をなしている。 そこに人工の内堀と土塁で本丸を囲み、 その外側に野牛曲輪、帯曲輪、弾正曲輪で防御し、外堀と土塁で囲んでいた。

「 永正五年(1508)、土豪の菅沼元成は、豊川(旧寒狭川)と支流宇連川(旧三輪川、大野川)との合流点を背に、 扇形に開いた土地(約10ha)に長篠城を築いた。 
菅沼氏は武田氏の支配に入ったが、武田信玄の死去により徳川家康が城を攻撃し、菅沼正貞は天正元年(1573)八月、開城し退去。  徳川家康が武田軍の再侵攻に備え、城が拡張され、大改築された。 
天正三年(1575)五月、武田信玄の子、勝頼が東海地方に勢力を伸ばすため、 一万五千人を率いて長篠城を包囲し、長篠の戦いが始まる。 城主は家康の家臣、奥平貞昌(信昌)、長篠城を守る奥平軍はわずか五百人。  八日間籠城して戦ったが、城内には五日分の食糧がなくなり、 落城寸前になったが、織田・徳川連合軍がかけつけて、城を死守した。   翌天正四年(1576)、奥平貞昌は新城城を築城し、長篠城は廃城になった。 」 

新城市長篠城址史跡保存館は、主郭の帯曲輪跡に建ち、 長篠合戦図屏風や奥平氏血染めの陣太鼓などを展示している。 
日本100名城スタンプは長篠城址史跡保存館の一階のトイレ入口近くに置かれている。 
保存館の手前の右手に空掘と土居があり、「要害の長篠城」という説明板が立っている。 

説明板「要害の長篠城」 
「 要衝(ようしょう) 
長篠の地は豊川をさかのぼって約25km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、 このあたりから平地は山に移っていく。  江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。  戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合ったいわゆる境目の城であった。 
要害(要害) 
長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。  平地への面を水堀と土塁、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。  平地に移ってきてもできるだけ天険えお利用した戦国末期の典型的な築城である。 
土居と堀 
この正面に見えるのは本丸の土居と堀で、天正3年の姿を残している。  右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが、 江戸時代に崩されて今は無い。  堀の土をかき上げられて土居にした。 堀には水を引き入れた。  土居と堀は直線に進まず、直線に近い出入りがある。  この形はやがて近世の城郭への移り変わる姿を見せている。 」  

長篠城址史跡保存館
     土居と堀      土居と堀
長篠城址史跡保存館
土居と堀
土居と堀



下の図は保存館周辺の当時の縄張図である。 
保存館の奥に空掘があり、その奥に入っていくと空地が広がっている。 
ここが長篠城の本丸跡で、一角に「史跡 長篠城阯」の石碑が立っている。 
また、歴代長篠城主の説明板が立っている。 

縄張図
     本丸入口空掘      史跡長篠城阯碑
縄張図
本丸入口空掘
史跡長篠城阯碑



楓の木の下の石垣のある盛りあがったところには「土塁」の標示がある。 
本丸はこのような土塁と水堀で防御されていたことが分かる。 
土塁がきれるあたりに赤い小さな鳥居がある。 
その先は金網に囲まれて、鉄道の線路が見える。 
線路のフェンスに「野牛郭址 殿井(とのいど) 線路の向かい側の表示板がある。 
飯田線が敷設される際、 長篠城の主郭である本丸と一段下の野牛郭の間に鉄道が通されて分断されてしまった。 
この先の野牛郭には物見櫓、殿井と突き当たりに櫓があり、 その外側は断崖絶壁であった。
線路のフェンスに「鳶ヶ巣山」の表示板があり、「向い側山並みの左手高所、 武田軍の陣地跡」とある。 木が繁り確認ができなかったが・・ 

本丸土塁
     飯田線(下)野牛郭跡      鳶ヶ巣山表示板
本丸土塁
飯田線 (奥の下)野牛郭跡
鳶ヶ巣山表示板



豊川(旧寒狭川)に面したフェンスに 「鳥居強右衛門磔死(たくし)の碑 対岸の平地にあります」という表示板があり、 また、「鳥居強右衛門磔の場所(寒狭川の対岸)」のプレートが立っているが、 草木が多く、川の流れも対岸も見渡すことはできなかった。 
鳥居強右衛門は野牛郭の門を出て、対岸から岡崎城まで50kmを走り、 援軍の確約を取り付け、対岸の地で磔にされた。 
フェンスに「矢沢 勝頼公本陣跡の医王寺より流れ込んでいる。 
向い側が弾正郭」という表示板がある。 
本丸の外に保存館のある地の帯曲輪があり、その外に矢沢が流れ、 その外に弾正郭があり、その外に大手曲輪があり、防衛していた。 
その先に「長篠城本丸跡」と書かれた木標が立っていて、 その奥に「長篠合戦両軍陣歿将士諸精霊位」と書かれた木柱と石柱が立っていた。 

鳥居強右衛門磔死の碑表示板
     矢沢表示板      長篠城本丸跡
鳥居強右衛門磔死の碑表示板
矢沢表示板
長篠城本丸跡



長篠城は長篠の戦いの後の翌年、城主の奥平貞昌(信昌)により壊され、新城市に 移されたため、建物や門などは一切残っていない。 
本丸付近には大規模な空堀と土塁が残っており、 天正元年(1573)に徳川家康が長篠城を奪取した後に大規模な修築を行った結果である と考えられている。
また、飯田線のために本丸と寸断されてしまったが、本丸南には野牛曲輪があり、 ここの遺構はよく残っている。
しかし、城の北側のほとんどは埋没、破壊され、現在は畑地や宅地などになっていて、 一部に石垣の遺構を残しているのみである。

所在地:新城市長篠字市場22番地−1  
JR飯田線長篠城駅から徒歩8分 新東名高速道路新城ICから5分  
長篠城のスタンプは長篠城址史跡保存館の1階トイレ前にある。 
長篠城址史跡保存館(0536−32−0162 火休、年末年始(12/29-1/3) 9時〜17時(入館は16時30分まで)



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かうんたぁ。