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左手のバス駐車場は本丸東曲輪跡で、その先に大手門がある。
「 現在ある大手門は二の丸入口に地元産みかげ石を使用して復元されたもので、 高さが十一メートル、幅が十六メートルのものである。 江戸時代の大手門はこの場所より北東約二百五十メートルの浄瑠璃曲輪に置かれていた。 」
大手門をくぐると二の丸跡で、右側の観光みやげ店の奥に二の丸井戸跡がある。
大手門の左にバス駐車場への出入口があり、白壁の塀の前に七間門の説明板がある。
説明板「七間門」
「 二の丸の正面にあたるこの場所に七間門がありました。
名称は門の正面の幅が七間あったことに由来し、その大きさは大手門に次ぐ堂々たる門でした。
七間門の外側には二の丸の馬出や東曲輪が二の丸防衛のために配置され、厳重な構えになっていました。 」
二の丸だったところは公園になっていて、
本多平八郎忠勝や徳川家康銅像の銅像、花時計やからくり時計塔などがある。
その先には三河武士やかた家康館と岡崎城二の丸能楽堂がある。
二の丸は本丸の北に位置、城主の居宅である御殿が置かれるなど藩政機能の中心となった場所である。
松平元康の像の先に小山が見え、その間に空掘がある。
二の丸側には「大書院庭園」の石柱が立っている。
また、「本丸周辺の縄張りと石垣」の説明板が立っている。
説明板「本丸周辺の縄張りと石垣」
「 岡崎城は河岸段丘の先端に本丸を配置し、
段丘が地続きとなる本丸北側には深い空堀がつくられ、何重もの曲輪が造り出しています。
二の丸から持仏堂曲輪に入り、二重に折れ曲がった先の狭い通路(帯曲輪)には絶えず本丸から
の横矢が掛かる仕組みになっています。
岡崎城の本丸周辺の厳重な守りは、戦国時代の松平清康(生没1511〜1535年・徳川家康の祖父)の改修を引き継ぎ、
家康が築いたものです。
徳川家康が1590年に関東に移封するまでの岡崎城は、
空掘と土塁を巧みに配置した堅固な土造りの城でした。
家康の関東移封後に豊臣大名の田中吉政が城主(在城1590-1600年)になって以降、
天守台や本丸周辺の堀や門に石垣が築かれていきます。
江戸時代前期には譜代大名の本多氏によって最大な菅生川端石垣が築かれるなど、
城全体を石垣で築き上げる近世城郭へと発展していきました。
現在も本丸周辺には多様な石垣の積み方や、
曲輪の形状に合わせた湾曲する特異な石垣を見ることができます。
石垣は最も古い段階には自然石をそのまま使用して積まれますが、
次第に自然石を割った割石が使用されるようになります。
さらに新しい時代には割石の形を整え、
表面を平滑に加工した石材を使用する石垣へと発展していきます。
また意匠を凝らした「見せる石垣」として、
大きな鏡石(天守台石垣東・北面)や隙間なく積み上げられた切石積み(本丸大手門脇石垣)も
見られます。
なお、石垣の石材にはほぼ花崗岩が使用されています。
花崗岩は岡崎城に最も近いところでは本丸から北東に約1qの甲山(六供町)で産出するほか、
小呂町や稲熊町の丘陵地でも豊富に産出します。 」
土橋を渡ると門跡の石垣が両側にあり、「竜城神社」の石柱が立っている。
門跡の石垣をくぐると太鼓門の説明板がある。
「 二の丸から持仏堂曲輪に通じる櫓門で、 現在は門の石垣を残すのみです。 江戸時代には城下に時を知らせる太鼓が置かれていたことから太鼓門と呼ばれています。 岡崎城下の出入口(籠田総門、松葉総門)の開閉時刻を知らせるため、 毎日この場主で太鼓を打っていました。 」
右手の奥にお堂があり、目の前の堀の先に天守が見えるが、
道は左に折れ曲がり、空堀に沿って右に大きくカーブしていく。
この狭い道が持仏堂曲輪という帯曲輪で、右の空堀は清海堀である。
説明板「持仏堂曲輪」
「 持仏堂曲輪は本丸の北側に位置し、
名称は徳川家康が所持した阿弥陀仏を安置した堂があったことに由来します。
最も強固な防衛を誇る曲輪で、
二の丸から進入した敵は180度方向転換をして狭い帯曲輪を通らなければ本丸虎口(出入口)に行けず、
側面から矢を受けることになります。 」
その先の左側に石垣があり、左手に建物が見える。
この石垣は本丸大手虎口で、江戸時代には楼門が建っていた。
また、左手は隠居曲輪跡である。
その下には水をたたえる水掘が見え、その下にあるのは風呂谷曲輪である。
右折すると左側に巽閣(有料貸館施設)があり、隣に立派な公衆トイレがある。
その対面にある鳥居の先に龍城神社(たつぎじんじゃ)が祀られている。
「龍城神社の社伝」
「 三河国守護代、西郷稠頼が岡崎城を築城したとき、龍頭が現れ、
城の井戸を噴出させたので、
城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという。
寛永年間に岡崎城天守に家康を祭神とする東照宮を祀る。
明治九年(1876)本丸に祀られていた本多忠勝を祭神とする映世神社と東照宮を合祀し、
竜城神社になった。
現在の建物は岡崎空襲で焼失したものを再建したものである。 」
その左奥にあるのが岡崎城天守閣である。
その前には「家康公遺言」の石碑などが立ている。
「 岡崎城は、本多康重から三代忠利(慶長五年(1600) 〜正保二年(1645)にわたる改修により平城となり、
元和三年(1617)、本多康紀のときに三層三階地下一階で、
東に井戸櫓、南に附櫓をもつ、複合連結式望楼型の天守が建設された。
明治維新後、他の建物と共に取り壊された。 」
現在の天守閣は資料に基づき、城戸久名古屋工業大学名誉教授の設計により、
昭和三十四年(1659))に復元されたものである。
日本100名城のスタンプは天守一階の受付脇に置かれている。
館内をさっと見て、天守閣の最上階の隙間から岡崎市内を眺めて降りた。
天守閣の周囲が本丸跡で、月見櫓跡の説明板を見付けた。
月見櫓は説明板より右手に建っていたようである。
説明板「月見櫓跡」
「 本丸南に位置し、城主が月見をするための櫓が建っていました。
丘陵の先端に建つ櫓の南方は見晴らしが良く月見には最適です。
明治時代初めの写真によれば、櫓の二階は板戸で開放できるつくりでした。
風呂谷曲輪から本丸への経路を眼下に見下ろすことから、
防衛上も理にかなった立地です。 」
月見櫓の右手にある石垣は埋門の石垣である。
説明板「本丸埋門石垣」
「 本丸に四箇所ある虎口(出入口)の一つ「本丸埋門」は、
門の外側にも枡形があり、二重の枡形に守られた厳重な構造でした。
現在のスロープ部分は階段であったと考えられます。
埋門は石垣の間に埋もれるように門が構築され、
石垣には門の横木が架け渡されていたことを示す痕跡が残るほか、
卍や#の刻印もみられます。 」
埋門を下った左右は坂谷曲輪で、東照公えな塚がある。
えな塚とは家康が誕生した時のえな(胎盤)を埋めたと伝えられる場所である。
歩道の外にある堀は伊賀川が流れていて、
竹千代橋、坂谷橋と国道1号が通る龍城橋が架けられている。
坂谷曲輪から川に出るところの両側に門跡の石垣があり、
「坂谷門跡」の石柱が立っていた。
近くに坂谷曲輪の説明板がある。
説明板「坂谷曲輪(さかたにくるわ)」
「 本丸から二の丸の西側に位置し、南北に細長い曲輪です。
天守からほぼ真西の位置に坂谷門があり、
門の前方には攻防の要にとなる半円形の馬出がありました。
現在は門の石垣が残るのみですが、石垣には大きな石材が使用され、
風格の高さを感じさせます。
また、門の梁が架け渡されていたことを示す痕跡が残ります。 」
坂谷門跡の左手に「持仏堂曲輪・本丸腰巻石垣」の説明板がある。
説明板「持仏堂曲輪・本丸腰巻石垣」
「 左側が持仏堂曲輪の腰巻石垣、右側が本丸の腰巻石垣です。
持仏堂曲輪は近世城郭の特徴である直線的な曲輪形状に整えられて構築された石垣ですが、
本丸側は中世城郭の特徴である曲線的な曲輪形式をそのまま活かして構築された石垣と
考えられます。 」
北面の天守閣の直下には、かつては廊下橋が架かり、持仏堂曲輪と結ばれていたという。
神橋を渡り外に出ると、舟着き場跡碑がある。
「 昔は帆掛け舟が荷物を沢山積んで菅生川(乙川)を上がり下がりしていた。 ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場跡である。 岡崎には「五万石」という古謡があり、 「 五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く 」 と謡われていた。 この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗岩で出来ており、 その古謡に因んで「五万石舟」という。 」
大手門の近くまで戻ると、松の木の下に「岡崎城下東海道二十七曲がり」の石碑があり、
隣に「従是東岡崎領」の領界石が立っている。
城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、岡崎宿が設けられたが、
東の籠田総門から西の松葉門まで、
「二十七曲がり」という曲がりくねった町並になっていた。
慶長十四年(1609)には伝馬町ができ、岡崎城の城下町として、東海道有数の宿場町として繁栄した。
最後に八丁味噌のふるさとを訪れた。
味噌蔵が建ち並ぶ八丁味噌カクキューは創業六百余年の老舗で、見学もできる。
「 岡崎城から矢作川に向うと、八帖町にいたる。
ここは岡崎城と並んで岡崎が誇る八丁味噌のふるさとである。
丸大豆のみを使い、完成までに三年かかるというこの味噌は室町時代から始まった。
八帖町という地名は岡崎城から八丁(約八百七十メートル)離れていたことに由来する。 」
岡崎市康生町561 岡崎公園内
名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から徒歩約15分
日本100名城の岡崎城のスタンプは、天主1階(0564-22-2122 年末年始休み) にて
午前9時〜午後5時(入場は4時30分まで) 200円(三河武士のやかた家康館は360円)