日本100名城 (44) 名古屋城
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣秀頼を大坂城に封じ込め、 それを監視するため、彦根城、和歌山城、伊賀上野城、姫路城を作ったが、 特に力を入れて築城したのが名古屋城である。 「 慶長十四年(1609)に名古屋城の築城と清須から新城下への町まるごとの移転を決定。 慶長十五年(1610)、加藤清正・福島正則ら西国大名二十家に城普請を命じました。 これを天下普請といいます。 天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・ 中井正清らに命じられ、慶長十七年(1612)にほぼ完成しました。 尾張初代藩主として家康九男の義直が入り、 以後、名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家十七代の居城となり、 明治維新後に発布された廃城令でも城の保存が決まられ、 昭和五年(1930)城郭建物としては初めての国宝になったが、 昭和二十年(1945)五月の名古屋大空襲により、 天守や本丸御殿など国宝建造物二十四棟が焼失しまい、城下町も火の海に化した。 」 昭和三十四年(1959)に正門がほぼ昔どおりの外観で再建された。 「 清正石は名古屋城で最大の石垣石材である。
ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当だったが、巨石であるがゆえ、
普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。 」
焼失を免れた三つの隅櫓と三つの門、
疎開していて無事だった本丸の障壁画が国の重要文化財に指定されている。 説明板 西南隅櫓は東南隅櫓と同じですが、石落しが西と南の二方向にあり、破風の形状も異なっている。 「 大正十年(1921)、災害により倒壊したが、 名古屋離宮時代の宮内省により、大正十二年(1923)に修復されました。 そのため、鬼瓦などに菊花紋が見られるのが特徴である。 」 焼失を免れた三つの門の一つに重要文化財に指定されている本丸表二之門がある。 「 古名は南二之門、本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。
本瓦葺きの高麗門で、軒回りは漆喰塗込めとし、柱や扉に金具を打ちつけている。 」
旧二の丸東二之門は東鉄門という二の丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。 「 昭和三十八年(1963)、二の丸に愛知県体育館が建設された際、本丸の東二之門跡に移築された。 」 二の丸東庭園は文政年間(1818〜30)に十代藩主斉朝(なりとも)によって、
それまでの姿から大きく改変、整備され、二之丸御殿に附属する築山や池、
茶屋が点在する回遊式庭園となった。 「 二之丸は明治以降、昭和二十年(1945)まで陸軍の管理下に置かれ、 二之丸御殿は破却されるとともに二之丸庭園の東部は練兵場や兵舎の建設のために 築山の削平や池の埋め立てが行われ、その姿を失った。 」 本丸御殿は尾張藩主の住居かつ藩の政庁として慶長二十年(1615)、徳川家康の命で建てられた。 名古屋市営地下鉄名城線「市役所駅」から徒歩5分 |