日本100名城 (43) 犬山城(いぬやまじょう)






犬山城は木曽川に臨む要害かつ景勝の地に築かれた城で、秀吉と家康による小牧・長久手の舞台となった。

「 犬山城は織田信長の叔父である織田信康(のぶやす)が天文六年(1537)に居城の木ノ下城を廃し、 木曽川沿いの標高八十八メートルの丘陵上(現在の位置)に築いたことに始まる。 
城の縄張は天守の建つ本丸から南へ、杉の丸、樅(もみ)の丸、松の丸をほぼ練郭式に並べた形だった。
本丸の背後は木曽川によって守られていて、いわゆる「後堅固」の構えになっていた。
城主はめまぐるしく交替した。
元和三年(1617)、尾張徳川家の付家老の成瀬氏が城主となった。   その際、天守に唐破風出窓が増築された。 
明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊された。 
明治二十四年(1891)の濃尾地震で、天守は大きな被害を受けた。 
明治二十八年、愛知県は城の修理、整備を条件に成瀬氏に譲渡し、 個人所有という珍しい形態が平成十六年まで続いたが、 現在は、財団法人犬山城白帝文庫の所有になっている。  」

木曽川沿いの約八十八メートルの丘に築かれた平山城であるが、別名、白帝城といわれる。 
木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩、 「早發白帝城」にちなんで、荻生徂徠が命名した、と伝えられる。 
天守閣の最高部に立つと、眼下に木曽川が流れるのを堪能できる。
針綱神社(はりつなじんじゃ)は犬山城の守護神で、 三光稲荷神社と同じく犬山城の南の登城入り口近くにある。 

「 針綱神社は天文六年(1537)以前には天守閣付近に鎮座していた。  信長の叔父信康が犬山の木ノ山城主だったとき、 奥方の懐妊で自ら手彫りの狛犬一対を奉納し、 安産祈願したことから安産の神として今日に至っている。 」

針綱神社の石段を上ると矢来門の説明板がある。 

「 この場所には本丸に続く大手道の門のうち、 城郭部分の入口にあたる中門の次にある二番目の矢来門といわれる高麗門形式の門が ありました。 この次にあった黒門との間で敵を囲める工夫がされていました。  明治七年(1874)、当時の価格で二十円で専修院(丹羽郡扶桑町)に移築されています。 
北側には江戸時代から堀がありました。  人工的につくった急斜面である切岸や石垣とともに、 本丸へつづく大手道から直進させない役割があり、鉄壁の防御を誇っていました。  かっては水堀の時代もあったようですが、後世に空掘となりました。 」  

木曽川
     針綱神社      矢来門
白帝城の由来になる木曽川
針綱神社
屏風櫓、堀、矢来門



左にカーブする急坂を上ると松の丸門の説明板がある。 

「 針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、 江戸時代には松の丸という曲輪があり、松の丸御殿と呼ばれる御殿がありました。  この場所には本丸へつづく大手道から松の丸に出入するための松の丸門が建っていました。  明治初めに浄蓮寺(一宮市千秋町)に移築したとされています。  」  

犬山城の大手道の屈曲する要所には門が配置され、 高い位置にある曲輪の石垣・門と併せて枡形空間(外枡形)が連続して構成され、 坂の下から攻め上がる敵の侵入を拒むようになっている。 
この構造は文禄・慶長期に日本が到達した先進的な城郭のあり方を示しており、 犬山城は城郭構造の視点からも天下の名城といえる。 
枡形の石垣前に黒門の説明板がある。 

「 江戸時代、この場所には大手門の第3の門である黒門が大手道をまたいであり、 今も礎石が残っております。  この場所で敵を食い止められるとともに、 道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸から攻撃できるなど、 攻守に秀でた構造になっていました。  明治9年(1876)、当時の価格で23円(一説には明治13年に25円)で、 徳林寺(丹羽郡大口町)に移築されています。  」   

三光稲荷神社の脇の急な石段を上ると岩坂門の説明板があり、 その先右側に入城券売場がある。 

「 江戸時代には本丸につづく大手道の坂を岩坂といい、 この場所には岩坂をまたいで、岩坂門といわれる門がありました。  つきあたりのの鉄門までの道は屈曲させており、 攻められにくい工夫がされておりました。 」

カーブする急坂
     黒門の説明板      岩坂門の説明板
左にカーブする急坂
黒門の説明板
岩坂門の説明板



その先に楼門である鉄門がある。 鉄門の二階からは奥に犬山城の天守閣が見える。 
ここから有料で、日本100名城のスタンプは鉄門2階の事務所(0568-61-1711 9.00〜17.00)前に置かれている。 
木曽川の畔からの城の眺めの美しさは、漢詩にちなんで白帝城の雅称を生んだ。 
かっては天守閣の前に本丸御殿があり、本丸の周囲に櫓が建っていたのだろうが、 明治四年(1871)九代目成瀬正起肥の時、廃藩置県で廃城になり、 天守と東南角の付櫓を除き、本丸御殿などの建物は撤去されてしまった。 
犬山城の天守は、現存する天守では最も古いと言われ、国宝に指定されている。

「 犬山城の天守の創建は天正(1573〜92)、慶長五年(1600)、六年など、 いくつかの説があるがあるが、現存する天守では最も古いとされる。  天守はそれほど大きくないが、天守の東面の正面には入母屋破風、 三階の南北には唐破風があり、四階の華頭窓なども含め意匠的にも見ていて飽きることはない。 
石垣を含め高さ二十四メートルで、三重四階、地下に踊場を含む二階が付く。  天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、 入母屋二重二階の建物の上に三間×四間の望楼部を載せた望楼型天守である。  窓は突上窓と火灯窓、両開き窓など、石垣は野面積みで、高さは五メートルである。 」

鉄門
     本丸跡      天守閣
鉄門
本丸跡
天守閣



所在地:愛知県犬山市犬山字北古券65−2   
名鉄犬山線「犬山遊園駅」から徒歩約15分 
犬山城のスタンプは犬山城内の鉄門2階事務所(0568-61-1711 9時〜17時)にて 



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かうんたぁ。