日本100名城 (41) 駿府城(すんぷじょう)






駿府城は富士山望む地に構えられた徳川家康の隠居城で、 大御所にふさわしい3重の堀と6重7階の天守をもつ城を天下普請で造られた。

「 駿府とは駿河の国の中心を意味し、徳川家康が幼少時今川氏の人質となっていたところである。
駿河守護の今川氏の居館があったとされる場所に徳川家康が最初に城を築いたのは天正十三年(1585)といわれるが、詳細は不明。  隠居した家康は、西国の大名に負担させ、慶長十二年(1607)、 大御所にふさわしい三重の堀と六重七階(あるいは五重七階)の天守をもつ城に大改築した。 
駿府城は外堀の南の大手御門(東側)と四足御門(西側)から入ると、三の丸、中掘の東側に東御門、南側に裏門があり、 その中は二の丸、二の丸と本丸の間には本丸堀(内堀)があるという構成だった。 
明治二十九年(1896)の歩兵第34連隊の誘致に伴い、三重の堀の内、外堀の三分の一と本丸堀(内堀)は埋められ、 城郭施設は凡て取り壊された。 」 

外掘と中堀で囲まれた旧三の丸は官庁や学校などの建物が建っているが、 中堀の内側の旧二の丸と本丸は駿府城公園になっている。 
公園を巡る中堀の石垣は当時のままである。 
中堀に架かる橋を渡ると東御門があるが、 これは平成八年(1996)に多聞櫓と一緒に日本古来の伝統的在来工法によって復元された門で、 楼門と高麗門からなる枡形門である。 
旧二の丸の南東には巽櫓(たつみやぐら)が市制100周年の記念事業として平成元年(1989)に復元されたが、  全国にある城の櫓建築でほかに例の少ないL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中ではもっとも高い櫓で、 防御に優れた櫓だったという。
東御門と巽櫓には駿府城公園内より発掘された資料の展示や 徳川家康が幼少期の人質時代に太原雪斎から教えを受けたとされる、 臨済寺の部屋を復元した「竹千代手習いの間」などが展示されている。 

中堀
     東御門      巽櫓
中堀
東御門
巽櫓



平成二十六年(2014)には旧二の丸の南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元された。

「 坤櫓(ひつじさるやぐら)の名前は、築城当時は方位に干支が用いられていて、 北を子(ね)として時計回りに割り当て、 南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間にあるため、坤(ひつじさる)と呼んだことに由来する。  外見は二重だが、内部は三階構造となっている。 復元に当り、駿府御城惣指図や駿府御城内外覚書などを基に 伝統的な木造建築工法を用いて復元された。」 

内堀(本丸堀)は、明治時代、陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に埋められたので、 二の丸と本丸の境ははっきりしなくなっている。  池の傍らに「本丸堀」の説明板があり、これは発掘調査したものを残したもののようである。

「 本丸堀は三重堀の一番内部の堀で、本丸を取囲んでいた。  幅約二十三メートル〜三十メートルで、深さは五メートルあった。  石垣は荒削りした石を積み上げ、隙間に小石を詰めていく打込みはぎという積み方だった。  角の部分は算木積みという積み方で、横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしている。 」 

本丸には本丸御殿が建てられていたが、明治に取り壊されて今はない。
本丸跡の西隅に徳川家康の銅像が建っている。
また、北側には家康手植えのミカンの木がある。

坤櫓
     本丸堀      徳川家康の銅像
坤櫓
本丸堀
徳川家康の銅像



本丸の北西には天守台があり、寛永期には天守があった。
天守は六重七階(あるいは五重七階)建ての石垣天端で、 約五十五メートル×四十八メートルという城郭史上最大のものだったが、 寛永十二年(1635)の火事で焼失し、その後は再建されなかった。 
明治二十九年(1896)、歩兵連隊設置に伴い、天守台と本丸堀が埋め立てられた。
平成二十八年(2016)から天守台発掘調査が行われて、その全貌が明らかになった。
寛永十二年(1607)に家康が隠居城として大改修した慶長期の天守台は 南北69m、東西63mの長さで、それを本丸堀が囲んでいた。
家康が天正十三年(1585)に最初の城を築いた時、築いた天守台跡も発見された。
その天守台は慶長期の南東部に位置し、南東37m、東西33mであった。

発掘された天守台跡
     慶長期の石垣      天正期の石垣
発掘された天守台跡
慶長期の石垣
天正期の石垣



所在地:静岡市葵区駿府公園1−1  
JR東海道本線・東海道新幹線静岡駅から徒歩10分 
駿府城のスタンプは東御門券売所(9時〜16時半、月休) にて 
東御門、巽櫓(200円)、紅葉庭園(150円)、坤櫓(100円) 



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かうんたぁ。