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山中城全体図 |
国道1号線の西側にある公民館の隣にあるのが宗閑寺であるが、このあたりは三の丸跡である。
「 宗閑寺は静岡市にある浄土宗華陽院の末寺で、開山は了的上人、 開基は間宮豊前守の女、お久と伝わる寺院である。 ここには山中城の戦いで亡くなった北条軍の間宮豊前守康俊兄弟とその一族、 山中城主、松田右兵衛太夫康長と群馬県の箕輪城主、多米出羽守平長定らの墓と共に、 豊臣軍先鋒、がひっそり佇んでいる。 」
山中城の戦いがあったのは天正十八年(1590)のことである。
「 豊臣秀吉は小田原城攻略の鍵は山中城と韮山城にあるとして、総勢七万人。 中央陣取る秀吉の甥の豊臣秀次を大将に、丹羽長秀、堀秀政、山内一豊などの部隊三万五千人で山中城を攻めさせた。 城を守る北条軍は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら四千人の兵。 三月二十九日の朝、八時三十分、豊臣軍は中村一氏を先陣に岱崎出丸から攻撃を開始。 北条軍の守将、間宮康俊は寄親の北条氏勝等を撤退させ、 自らは手勢二百人を率いて、三ノ丸から岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した。 激しい銃撃戦で、豊臣方の先鋒の一柳隊は壊滅的打撃を被り、直末自身、流れ弾により戦死を遂げた。 北条方の間宮康俊も力尽きて康俊以下一族は腹を切って死に、正午過ぎには岱崎出丸は陥落した。 勢いのついた豊臣軍は総勢で三の丸、そして、二の丸を落としたが、 最後の本丸では本丸を守る城兵二百余名が奮戦したので、豊臣軍は一旦は引き上げた。 その後、城兵が一息をついている頃を見計らって、豊臣軍全軍が一斉に攻撃したので、 城将の松田康長以下主だった武将はみな戦死し、夕刻には山中城は落城してしまった。 」
三の丸での戦いは大激戦で敵味方の死体が折り重なったと言われるが、
当時の華陽院住職、了的上人がここで戦死した間宮豊前守康俊の女、
お久の方の心情をあわれと思い 山中城の三の丸跡に宗閑寺を建立したと伝えられる。
寺の裏を出てみると田尻の池があり、その先に三の丸堀の説明板がある。
「 三の丸曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は大切な防御のための堀である。
城内の各曲輪を囲む堀は堀の縄張りに従って堀を削ったり、畝を掘り残したりして、
自然地形を加工したのに対し、三の堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて、二重の堀を設けている。
中央の群れを境に東側の堀は水路として箱井戸、田尻の池からの排水を処理し、
西側の堀は空堀として活用したものである。
この堀の長さは約百八十米、最大幅約三十米、深さは約八米あった。 」
北に向って上っていくと、山中城の本丸跡に出る。
説明板「本丸跡」
「 本丸は標高五百七十八メートル、面積は千七百四十平米で、天守櫓と共に山中城の中心となっている曲輪である。
周囲は本丸ふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。
この曲輪は盛土によって兵糧庫側から二米前後の段を造り、二段の平坦面で築かれている。
虎口(入口)は南面にあり、北は天守櫓と本丸北橋で北の丸へ、
西は本丸西橋で北条丸(二の丸)に続く。
江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、
現在の藤棚の位置である。 」
北側には北の丸跡があり、木橋が復元されていた。
「 北の丸は標高五百八十三メートル、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、
千九百二十平米の大きな曲輪だった。 発掘調査で、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して
平坦面を作り、本丸側を除く三方に土塁で囲み、本丸との間は木製の橋を架けて往来していたことが分かったので、
木橋を復元した。 」
本丸と二の丸との間には本丸西橋があり、その周囲は深い空堀(障子堀)と高い土塁で守られている。
「 北条氏政は秀吉の小田原攻めに備え、山中城を改修して防備を固めることにしたが、 未完成のまま豊臣軍を迎えることになり、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めで落城した。 北条氏の滅亡後、廃城となり、そのまま放置された結果、北条氏独特の城郭の構造を多く残されたといわれる。 」
三島市により当時を反映した整備改修がなされ、北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡になっている。
障子堀や畝堀は水のない空掘の底に畝を残し、敵兵の行動を邪魔するという北条流の築城術の特徴を示すものである。
橋を渡ったところが二の丸跡で、北から南に傾斜しているが、
しっかり整地がなされておらず、自然の地形のままのようである。
今は広い広場になっていて、その奥に櫓は残っていないが、二の丸櫓台がある。
「 天正十八年(1590)の山中城攻防戦では山中城守将の北条氏勝は二の丸に陣取っていたが、
西櫓と西ノ丸が徳川家康の軍勢に攻め込まれるのを見届けると
北条氏勝は二の丸から山中城を脱出し、小田原城に逃げてしまった。 」
堀にかかる橋を渡ると西の丸の元西櫓の説明板がある。
その先に西の丸があるが、下の方に矢印のある「溜池跡」の説明板がある。
「 溜池(貯水池)は山田川の支流の谷からここまで延びてきたものを盛土によって仕切り、
人口土手を作って深い堀にしたものである。
この溜池に本丸、北の丸等の堀水が集まり、また、広大な西の丸の自然傾斜による排水も西櫓の排水も流入するしくみである。 」 とあった。
ここは三の丸へ向う通路で、西の丸の排水路も兼ねた北条流の築城術である。 」
西の丸は三千四百平米の広大な曲輪で、今は広い空地になっているが、山中城の西方防衛の拠点である。
説明板
「 西端の高い見晴台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、
内部は尾根の稜線を削平し、見晴台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
曲輪全体に東に傾斜して、東側にある溜池には連絡道路を排水口として雨水が集められるしくみになっていた。 」
建物に関する説明板もある
「 西の丸を全面発掘したが、建物遺構は確認されなかった。 西櫓跡からは三米X二.六米の柱穴跡が、元西櫓跡からは五.四米X七米の建物の柱穴跡が確認され、 平らな石等も確認されたので、掘立柱、茅葺の物置程度の建物があっただろう。 炊事道具などが出土しないので、寝小屋(根小屋)は他の曲輪にあったものと考えられる。 」
ここからの眺望は素晴らしく、雪を被った富士山が目の前に大きく見えた。
西の丸から障子堀を越えて突き出しているのが「角馬出」といわれる西櫓で、全て盛土を積み上げたものである。
「後北条氏の角馬出(かくうまだし」という説明板があった。
「 戦国時代の城で、二つの虎口(出入口)と一つの広場が組み合わされているものを馬出と也ばれている。
馬出は戦国時代の永禄年間に完成したと考えられるが、甲斐武田の城では馬出の土塁と堀を丸く造ったので、
丸馬出と呼ばれ、堀が円弧を描くので、通称三日月堀である。
これに対し、後北条氏の馬出はその形から角馬出と呼ばれている。
西の丸から障子堀を越えて、前方に突き出したこの西櫓(広場)を四角に造り、
それに沿って土塁と堀を巡らせいる。 防衛する時は西の丸の虎口を中心に、
攻撃する時は堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。
この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。 」
西櫓と西の丸曲輪の北側を守る障子堀の様子はすごい。
西の丸と西櫓を守る周囲の堀は西の丸畝堀という。
「 畝堀は五本の畝によって区画され、畝の高さは約二メートル、 更に、西の丸曲輪とは約九メートルの高さがあったという。 現在は、芝が植えられているが、当時はローム層の土がむき出しになっていたので、 上ろうとしても滑りやすかったことだろう。 」
西櫓跡から急な坂道を下ると先程の田尻池に出て、三の丸堀の脇を下ると山中城跡のバス停に出る。
国道の反対側には「史跡山中城跡」の門柱がある駐車場があり、そこにそばを食べさせる売店があるが、
売店前に 日本100名城のスタンプ済みの紙が用意されている。
ここは山中城の岱崎出丸(たいさきでまる)があったところである。
「 岱崎出丸は城内で最も西に位置する。 最長部は四百米、最大幅は五十米あり、 細長く突き出すような形をした曲輪である。 岱崎出丸は天下統一を進めた豊臣秀吉との戦いに備えて、北条氏政が突貫で造った出丸だが、 未完成のまま戦いが始まり、半日の戦いで山中城は攻め落とされた。 」
すり鉢曲輪の物見櫓からは、西の東海道を攻め上ってくる軍勢が良く見える。
岱崎出丸の一の堀は攻めてくる敵に対する防御目的の最初の畝堀である。
写真の一の堀は発掘調査により検出されたもので、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を東海道(箱根旧街道)の空掘まで
続くものである。
「 掘底からすり鉢曲輪の土塁までは斜面で、
十八メートルから二十メートル前後の急な勾配になっていた。
すり鉢曲輪は山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にあり、本丸側の曲輪と違い、中央部を凹ませて低くし、
中心からゆるやかな傾斜で立ち上がり、中途から傾斜を強めて土塁の頂部に達している。
すり鉢曲輪の中央部はすり鉢の底のように低くなり水が溜まるので、防御機能を持たせた曲輪と考えられる。
現在は安全のために浅くなっているが、当時はもっと深かったようである。 」
この曲輪の入口は南に造られているが、更に東に接続して、幅八メートルの長方形の曲輪が作られていて、
防衛のための武者だまりと推定されている。
また、北側にある御馬場曲輪は馬をつないでいたところである。
所在地:静岡県三島市山中新田字下ノ沢ほか
JR東海道本線・東海道新幹線「三島駅南口」から沼津登山東海バス「元箱根港行き」で約30分、「山中城跡」下車すぐ
山中城のスタンプは山中城跡売店のカウンターにスタンプ済みの用紙が置かれている