日本100名城 (38) 岩村城(いわむらじょう)






岩村城は近世山城の代表で、標高七百十七メートルの日本一高いところに築かれた城である。 

「 高取城、備中松山城とともに近世城郭における日本三代山城といわれる。 
城の創築についてははっきりとした時期は不明であるが、 永正年間(1504〜1521)には遠山氏の居城として築かれていたと考えられる。 
戦国時代には遠山氏、江戸時代には丹羽氏と松平氏が城主となった。  遠山景任の妻、おつや(織田信長の叔母)が景任の病没後、領地を治めていた時期があるので、 女城主の城ともよばれる。 」

麓にある岩村歴史資料館は藩主邸跡である。 
慶長六年(1601)、松平家乗によって岩村城の北西山麓に藩主邸が構えられた。 
下屋敷とも呼ばれたが、明治十四年(1881)に火事で全焼してしまった。
平成二年に太鼓櫓、表御門、平重門などが復元された。 
岩村藩校知新館の説明板に、この建物は岩鞍藩校、知新館の正門である、とある。 

「 知新館は、元禄十五年(1702)藩主の松平乗紀によって創立された学校で、 美濃地区では最初の藩学であり、全国的にも古く十指に入る。  知新館正面の向かって左側に釈てんの間があった。  釈てんとは孔子を祭ることで、知新館における孔子廟であり、常に孔子の像を配し、 教授は礼拝してから授業に向かった。 」

岩村歴史資料館には、城内の八幡神社の棟札、享保岩村城絵図や明和岩村城平面図など、岩村城絵図、 佐藤一斎自讃画像軸(いずれ も重要文化財)など、岩村城、岩村藩の史料を収蔵・展示している。 
また、日本100名城のスタンプの設置場所でもある。 

藩主邸跡
     太鼓櫓、表御門、平重門      岩村藩校知新館
藩主邸跡
太鼓櫓、表御門、平重門
岩村藩校知新館



岩村城は山頂一帯に階段状に配された曲輪群と山麓部の居館群からなっていた。 
各曲輪には、石垣が巡らされ、数多くの櫓や多聞櫓が建ち並んでいた。 
本丸の北東面には、雛壇に築かれた六段の見事な石垣が残されている。
江戸時代後半に築かれたもので、背面の高石垣の崩落を防ぐ補強の石垣であった。 
二の丸東側の石垣は自然地形に沿って鈍角に積まれている。  この石垣に合わせて、平面を「く」の字状とした菱櫓が建てられていた。 
一の門は、藩主邸からの登城道の最初に設けられた岩村城門で、櫓門とその脇に単層の櫓が構えられていた。 

六段壁
     菱櫓跡      一の門跡
六段壁
菱櫓跡
一の門跡



土岐門は一の門に続く、岩村城第二の門で、城主遠山氏が土岐氏を破って、 その居城の城門を奪い、ここに移したという伝承から、この名がついたとされる。 
土岐門に続く第三の門が追手門で、前面の空掘は畳橋と呼ばれる木橋がかかっていた。 
追手門の脇には天守に相当する三階櫓(橋櫓)が構えられていた。 
霧ヶ井と呼ばれる井戸は、城主専用の霊泉で、 敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、たちまちに霧に被われて城を守ったと言われる。  その言い伝えから、岩村城は「霧ヶ城」とも呼ばれていた。 
本丸埋門は二の丸から本丸へ入る門で、位置的には本丸北口にあり、裏門にあたる。 
石垣は積み方や石の加工法によって、野面積み・打ち込みハギ・切込ハギに分類されるが、 ここでは三種の積み方が一度に見られる日本でも珍しい場所である。 

追手門・三重櫓・畳橋
     霧ヶ井      本丸埋門跡
追手門・三重櫓・畳橋
霧ヶ井
本丸埋門



所在地:岐阜県恵那市岩村町城山  
明知鉄道岩村駅下車、岩村歴史資料館まで徒歩約20分、 本丸までは登城坂の石畳を八百メートル登ると、徒歩20分から30分で、本丸跡に到着 
岩村城のスタンプは岩村歴史資料館(岐阜県恵那市岩村町98番地  0573ー43ー3057  4月〜11月 9時〜17時 12月〜3月 9時30分〜16時30分 ) の受付にて



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かうんたぁ。