日本100名城 (37) 一乗谷城(いちじょうだにじょう)






一乗谷城は戦国大名朝倉氏の山城と城下町で、 文明3年(1471)、朝倉孝景が越前守護斯波氏を破って、一乗谷川沿いの天然の要害に館を築いたことに始まる。

「 一乗谷城は福井市街の東南方向約十キロ離れた、九頭竜川支流の足羽川の、 さらに支流・一乗谷川沿いの谷あいにある城で、 朝倉氏の館だけでなく、城下町と館跡、四つの山城から構成されていた。 
その歴史は文明三年(1471)、朝倉孝景が越前守護斯波氏を破って、 一乗谷川沿いの天然の要害を拠点としたことに始まる。  一乗谷は東西約五百メートル、南北約三キロメートルと狭小だが、 東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害の地である。  その上、福井平野の端から山地に入ってすぐのところにあり、 数キロ手前には北陸道や大野盆地に通じる美濃街道、北陸道と連なる朝倉街道 鹿俣峠を抜け越前府中へ続く道などの交通の要衝を押える位置にあった。 
一乗谷の南北に城戸(きど)を設け、二つの城戸(門)にはさまれた約千七百メートルの 城戸ノ内に朝倉館をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町を形成し、 周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞だった。  一乗谷は応仁の乱を逃れてきた京都の公家などの文化人たちなどにより、最盛期には人口一万人を超え、 越前の中心地として栄えた。 
天正元年(1573)八月十六日、朝倉義景は刀禰坂の戦いに大敗し、一乗谷を放棄し大野へ逃れる。  翌日、信長の軍勢により放たれた火によって灰燼に帰した。  信長より越前八郡を与えられた柴田勝家は、本拠を水運、陸運に便利な北ノ庄に構えたため、 辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。 その後長い月日が経過した昭和四十二年(1967)に発掘が開始され、 朝倉氏館や武家屋敷などの遺構が発見された。」

平成七年(1995)、発掘遺構の上に、発掘結果や史料等を基に、 二百メートルにわたって、中級武家屋敷や町並が再現された。 
当時、この一帯には周囲を土塁をめぐらし、大屋敷が立ち並んでいた。
再現された中級武家屋敷は約三十メートル四方の広さをもち、西の道路に向って建つ表門の周囲を土塀で囲んでいる。
中に入ると左半分の奥に板蔵、左側に使用人が居住していたと思われる納屋や中央に井戸があり、 その右側に厠(便所)がある。
右半分の奥の方に主人が住む三十坪の主殿があり、その広さは六間x四間で、台所、たたき、納戸、主室は三部屋、 それに接して東西隅に離座敷と庭が設けられていた。 
屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、舞表戸、明障子等の引戸も多く用いられている。 
木材の加工にはかんな、やりかんな、ちょうな等が使用された。 

表門
     屋敷左半分      主殿
表門と土塀
屋敷左半分
主殿



朝倉館跡は一乗谷の中心部に位置し、朝倉家当主が居住した館跡である。 

「 東側後背に山城があり、西、南、北の三方を高さ一・二メートルないし三メートルの土塁とその外側に幅約八メートル、 深さ約三メートルの堀で囲んでいた。 
平坦部の面積は約六千四百平方メートルあり、内部には十七棟の建築物があった。   館内最大の常御殿は東西約二十一・四メートル、南北約十四・二メートルの建物で、 それを中心に南側には主殿や会所、数寄屋、庭園、花壇など接客用の施設群が、 北側には台所や持仏堂、湯殿、蔵、厩など日常生活のための施設群が建っていた。 
舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされる。」

朝倉館跡は建物跡の礎石が点々と広がっていて、当時の豪壮な姿を想像できる。 
建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられ、屋根にはこけら板等を葺いていたと考えられるが、 鬼瓦や棟石等も発掘されているという。 
朝倉館跡へ入るところに深さ約三メートルの水堀があり、橋を渡ると唐門がある。

「 朝倉館の前面と左右を囲む土塁には、それぞれ隅櫓や門があった。
西方の門が正門(御門)で、現在は唐門が建てられている。 
唐門は朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる松雲院の山門で、 現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものである。 
この場所は朝倉義景館の西正門があったとされるところで 幅二メートル三十センチの唐破風造り屋根の門である。 
門標には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。 」 

朝倉館全体図
     朝倉館跡      唐門
朝倉館全体図
朝倉館跡
唐門




朝倉義景館の右手に朝倉義景の慰霊碑が建っている。 
また、庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石、伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存している。 
後世の改変がなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えている。 
義景館跡にあったのは背景の山を利用した小さなものだったが、その奥にある湯殿庭園など国の特別名勝に指定されていて、 湯殿跡庭園以外は石組の形式などが類似しているため朝倉義景時代の作庭と考えられている。 
一乗谷には約四十の寺院があったと考えられているが、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の近くに寺院跡があった。 
資料館には発掘調査に基づいて製作された館の復元模型が展示されているが、設立の目的は発掘物の調査と保管ということである。  

慰霊碑
     義景館庭園      遺跡
朝倉義景の慰霊碑
義景館庭園
寺院地区遺跡



一乗谷城は小生が訪れた麓の館及び武家。町民屋敷部分と背後の山城の二つで構成されていた。

「 山城は全長千五百メートル、幅二百メートルの曲輪を配し、 主郭部分はおよそ六百メートル×二百メートルである。  千畳敷は本丸跡と伝えられる場所で、標高四百十六メートルに位置し、山城のうち最も広い部分である。   主郭群の中では最も新しく、義景の代に山腹を削平して造営されたようである。   本丸の東南の尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、三の丸(473メートル)があり、 各曲輪は堀切によって区切られた連郭式城郭だったようである。  北西の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられていた。  現在も曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。 」

本丸まで山道で、最低一時間といわれ、山登りの服装が望ましいとのこと。 
二月に足を折った小生は大事をとってあきらめた。 

所在地:福井県福井市城戸ノ内町ほか  
JR越美北線「一乗谷駅」から徒歩約30分
JR「福井駅」から京福バス東郷線で約30分「武家屋敷前」下車すぐ 
一乗谷城のスタンプは福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(9時〜17時 0776-41-2330) にて 




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かうんたぁ。