日本100名城 (36) 丸岡城





丸岡城は古式ゆかしい天守が現存する城で、柴田勝家の甥、勝豊が築いたとされ、現存12天守の一つである。

「 丸岡城は天正四年(1576)に柴田勝家の甥の勝豊が築いたとされる。  福井平野の小高い独立した丘陵に、五角形の内掘に囲まれた中に本丸や二の丸のある平山城である。 
霞ヶ城の名の由来は、合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。 」

丸岡城の天守は、大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた独立式望楼型二重三階で、 古式の外観から現存最古の天守と呼ばれ、天守が残るのは北陸地方では丸岡城のみである。

「 一階平面を天守台に余分を持たせて造られているため、 天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。  天守の一階は塗籠と下見板張、一重目の大きな入母屋破風、三階は柱や長押を白木のまま見せるなど、 天守の古風な格式を高めている。   天守の屋根瓦は笏谷石(しゃくだにいし)製で、天守に石瓦を使用した現存例はここだけで、 寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。 
創建以来火災にあうこともなかった天守は昭和二十三年(194)の福井地震により倒壊したが、 昭和三十年(1955)、可能な限り倒壊前の部材を使い、再建された。   その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に替えられた。 」

天守の階段は急なので、現在は安全対策の紐が用意されていた。 
天守の下にある丸岡歴史民俗資料館には歴代藩主関係の歴史資料などが展示されている。 
城内にお静の慰霊碑が建っていて、築城に関わる悲話が残っている。 

「 丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、 人柱を立てることとなった。   城下に住む貧しい片目の未亡人、お静は息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。  その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。  しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。  それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。  毎年四月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。 」

天守閣
     石垣、石落し、狭間      お静の慰霊碑
丸岡城天守閣
野面積みの石垣、石落し、狭間
お静の慰霊碑



◎丸岡城の歴史 

「 天正十年(1582)、本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移され、 勝家は安井家清を城代として置いた。   天正十一年(1583)、柴田勝家が豊臣秀吉により北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、 長秀は丸岡城主として、青山宗勝を置いた。   慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで、青山宗勝とその子、忠元は、西軍についたため改易され、 越前国には徳川家康の次男、結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が二万六千石を与えられて、入城した。   慶長十七年(1612)、今村盛次は越前騒動に連座し失脚、 幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重が四万三千石で城主となった。   寛永元年(1624)、福井藩二代目、松平忠直が不行跡を理由に豊後配流となると、 本多成重は福井藩より独立、大名に列し、丸岡藩が誕生した。  元禄八年(1695)、丸岡藩四代目、本多重益はお家騒動を理由に改易となり、 代わって、有馬清純が五万石で丸岡藩主となり、 以後、丸岡城は有馬氏丸岡藩六代の居城となり、明治維新を迎える。  丸岡城は明治四年(1871)の廃藩置県により廃城となり、天守以外全てが解体された。  明治三十四年(1901)、城跡は公園となり、 本丸を囲んでいた堀は大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。 」 


所在地:福井県坂井市丸岡町霞1−59  
JR北陸本線「福井駅」から京福バス「本丸岡行き」で約40分「丸岡城」下車、すぐ 
丸岡城のスタンプは丸岡城入城券売場にて 
丸岡城の入城券は450円。 城と資料館、一筆啓上日本一短い手紙の館に入れる。 




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かうんたぁ。