日本100名城 (35) 金沢城






金沢城は、佐久間盛政が金沢御堂跡に城を築いたのが最初で、天正11年(1583)、前田利家が近世城郭に改修した。 
金沢城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川にはさまれた小立野台地の先端に築かれた平城である。 

「 天正八年(1580)、加賀一向一揆の拠点だった金沢御堂を織田信長配下の部将、佐久間盛政が陥落させ、 そこに城を築いたことに始まる。 かつて、尾山と呼ばれたのもこの地形にちなむ。 
天正十一年(1583)、前田利家が加賀に入封し、文禄元年(1592) から金沢城の改修工事を始め、 曲輪や堀の拡張、五重の天守や櫓を建て並べた近世城郭に改修し、加賀国百万石支配の拠点とした。  文禄元年(1592)、 利家の子、前田利長が再び改造を行っている。  天守は慶長七年(1602)の落雷により焼失、幕府への遠慮からか天守は再建されず、代わりに三階櫓が建造された。  この三階櫓はその後焼失し、再建されることはなかった。 金沢城は加賀前田藩の居城のまま明治維新を迎えた。  明治六年(1873)の廃城令では存城処分となり、陸軍省の財産となる。 
明治十四年(1881)の火災により、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫以外、ほとんどの建物が焼失した。 
城跡は第二次世界大戦が終結まで陸軍第九師団司令部となり、 戦後は平成七年(1995)まで、金沢大学のキャンバスになっていた。  平成七年(1995)、石川県の所有になり、金沢城公園として整備された。  」

兼六園側の堀の先に、焼けずに残った石川門がある。
石川門は一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成される門である。

説明板「石川門」
「 石川門は金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の三御門と呼ばれた。  二重櫓、渡櫓、長屋から構成される重厚な枡形門に造られている。  宝暦の大火(1759)の後、天明八年(1788)に再建され、現在に至る。   昭和二十五年(1950)、国の重要文化財に指定された。 」

一の門を入るとそこは枡形虎口になっていて、右に九十度曲がったところにもうひとつの門の二の門がある。

「 枡形虎口を形成する壁面の石垣は、左右の技法が異なっていて、 右側は切り込みハギ、左側は打ち込みハギによる。  同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和二年(1765)の改修時に起きたと考えられている。 」

石川門の先は三の丸跡で、江戸時代の三の丸には河北門、石川門の他、時鐘、鉄砲所、新丸には作事所、 越後屋敷、会所、割場などの施設があった。 

二重櫓と一の門
     二の門      枡形虎口
石川門の二重櫓と一の門(高麗門
同二の門(櫓門
枡形虎口



三の丸の先に橋爪一の門、同門続櫓、五十間長屋、菱櫓が一列に並んで建っている(下写真)

「 明治十四年(1881)の火災で焼失したものを平成十三年(2001)に復元した建物である。 
橋爪門続櫓は二ノ丸の正門である橋爪一の門を見下ろす位置にあり、 三の丸広場から橋爪橋を渡り、橋爪一の門を通って二ノ丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で、 橋爪櫓とも呼ばれていた。 
続櫓の中央には物資を二階へ荷揚げするための大きな吹抜けが設けられていた。 
五十間長屋は多聞櫓で、武器や什器等の倉庫になっていた。  多聞櫓は石垣や土塁の上に建てられる長屋造の櫓のことで、 その名の由来は永禄三年(1580)、大和国を平定した松永久秀が多聞山城を築き、 その櫓の内に多聞天を祀ったことによるといわれる。 
菱櫓は高さ十一・七メートルの石垣の上に築かれており、三階建で約高さは十七メートルである。  菱櫓は名前の通り、建物の平面は菱形で、四隅の内角は夫々八十度と百度になっていて、柱も菱形である。  部屋の中にある四本の通し柱は長さ十四メートル、太さは三十三センチcmの桧の柱であるが、 この柱を始め、使われている凡そ百本の柱も菱形で、ここ菱櫓は主に周辺を見張る役割を担っていた。 」

復元された橋爪一の門、五十間長屋、菱櫓など
左から橋爪一の門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓



橋爪門には門番の部屋があったようで、再現されていた。

「 橋爪門は、寛永八年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門である。  高麗門形式の一の門、石垣と二重塀に囲まれた枡形、櫓門形式の二の門で構成される城内最大規模を誇る枡形門だった。  石川門、河北門ともに三御門と呼ばれ、二の丸御殿から三の丸御殿に至る最後の門として、 通行の際しては三御門でもっとも厳しい制限が設けられていた。 文化五年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(1809)に再建された姿を復元している。 」

門の一角に敷石の説明板がある。

「 二の丸の正門に当る橋爪門は二の門床に御殿の玄関周りと同じく、 四半敷き(正方形の石を縁に対して四十五度になるよう 斜めに敷いたもの)で、戸室石が敷かれ、格式の高い門であったことを示す。 」 

橋爪門をくぐった先の広い空地は二の丸跡である。

「 寛永八年(1631)の大火を契機に本丸にあった御殿は二の丸に移り、二の丸御殿が藩政の中心になった。 
寛永八年(1631)の大火後、二の丸は千畳敷と形容される栄華な御殿が建てられ、 元禄年間の増築で拡張されたが、儀式の場である表向、殿様が日常政務を行う御居間廻り、 妻子や奥女中の生活の場である奥向という三つの空間に仕切られていた。 」 

橋爪門
     橋爪門の四半敷き      二の丸跡
橋爪門
橋爪門の四半敷き
二の丸跡



鶴丸倉庫は石川門、三十間長屋と同様、国の重要文化財に指定されている。

 「 幕末の1848年に竣工した武具土蔵で、建築されているのは東の丸付段である。  総二階の延床面積は約六百三十六平方メートルで、城郭に残っている土蔵としては国内最大級の遺構である。 
明治以降は陸軍により被服庫として使われていた。 」

河北門は金沢城の三の丸に通じる正門で、石川門、橋爪門とともに御三門と呼ばれ、 御殿に至る要所を固めていた。

「 いずれも四角い広場を内と外の門で厳重に固めた枡形門の城門である。 
中でも河北門は大手筋の要所を防備する重要な門だった。 
復元建物は安永元年(1772)に再建され、明治十五年(1882)頃まで存在していた河北門の姿を 多数の資料の調査と検証に基づいて再建したもの。  一の門は平入り門の二本の本柱の後に控柱を附属させ、その上に屋根を付けた高麗門という形式の門である。 」

その先の空間は枡形で、その先にある二の門は櫓門である。 
現存する三十間長屋は長さ約五十メートルの二重二階の多聞櫓で、壮大かつ海鼠壁が非常に美しい。  安政五年(1856)に再建された。 

鶴丸倉庫
     河北門一の門      二の門
鶴丸倉庫
河北門一の門
河北門二の門



三十間長屋は、昭和三十二年(1957)に国の重要文化財に指定された。

「 三十間長屋は、長さ約五十メートルの二重二階の多聞櫓で、壮大かつ海鼠壁が非常に美しい。  宝暦の大火(1759)後、長らく再建されず、安政五年(1885)に再建された建物である。  大火以前は食器などを納めていたが、幕末の再建後は武器、弾薬を納めたといわれる。 」

三十間長屋の南側の林の中に、本丸跡の説明板が立っている。

「 古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、 天正十四年(1586)頃に天守閣を設けたといわれる。  天守閣は慶長七年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられ、寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、 金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。 」

本丸の周囲には鉄門や辰巳櫓、丑寅櫓、戌亥櫓があったが、宝暦九年(1759)の大火後は再建されなかった。 
本丸跡は金沢大学農学部の敷地になっていたようで、その面影が残ると感じた。 
金沢城の西側には再建された玉泉院丸庭園がある。 この庭園は藩主専用の庭園だったようで、 加賀藩五代藩主前田綱紀が作庭した大名庭園の兼六園は金沢城の外郭庭園として、 来客をもてなす庭園だったようである。 
 

三十間長屋
     本丸跡      玉泉院丸庭園
三十間長屋
本丸跡
玉泉院丸庭園



所在地:石川県金沢市丸の内  
JR北陸新幹線「金沢駅」から北陸バスで約15分「兼六園下」下車、徒歩約5分 
金沢城のスタンプは二の丸櫓(9.00〜16.30)にて 




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かうんたぁ。