日本100名城 (34) 七尾城(ななおじょう)
七尾城は能登守護畠山氏の居城で、標高約三百メートルの七つの尾根に曲輪群が築かれた山城である。
「 七尾城は七尾湾が一望できる石動山系の北端、標高約三百メートルの城山に築かれた城で、
七尾の名は城が七つの尾根にまたがっているからといわれ、
七つの尾根から枝分かれる筋の大小の尾根に無数の砦を配置した大規模な山城である。
七尾畠山氏の初代当主、能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428〜1429)頃に築城したと推定されるが、
当時の城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所などは府中(七尾市府中)に置かれていた。
五代当主の畠山慶致と七代当主の畠山義総(はたけやまよしふさ)の時代である永正年間〜大永年間(1504〜1528)に、
畠山義総は積極的な国作りを行ない、居城を七尾の城山に移し、五大山城と称される七尾城が建設され、
守護所も府中から七尾城へと移されたといわれる。
七尾城は後に上杉謙信の猛攻を一年以上耐え切ったことからもわかるように、天下で屈指の堅城として讃えられた。
義総は優れた文化人でもあり、応仁の乱の戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、
さらに商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、義総治世の七尾城下町は小京都とまで呼ばれるほどに発展したが、
義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、能登畠山氏は急速に衰退していく。
天正四年(1576)、能登国に侵攻した上杉謙信に七尾城は包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。
しかし、重臣同士の対立の末に擁立された若年の当主、畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、
謙信により周囲の城は落とされ、七尾城は孤立し、
遊佐続光の内応により徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年九月十三日に開城された。
この城を奪った上杉謙信はその眺めのよさに感嘆したという。
その後、前田利家が能登国を所有するが、山城の時代ではなくなっていたので、拠点を小丸山城に移したため、
子の前田利政が城主になっていたが、天正十七年(1589年)に廃城となった。 」
前田利家が居城にしなかったため、開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、遺構が数多く残っている。
多くの曲輪が山麓まで延びる尾根に広がっており、本丸の最も奥まった所に天守閣が築かれていた。
高石垣はないものの、二メートルほどの低い野面積の石垣を五段に積み上げた本丸の石垣は高石垣の役目を果たしている。
曲輪の主要部に効果的に石垣が使われていて、織豊期の特色がよく表われていて、
本丸の石垣を中心に、各曲輪の石垣のほとんどが現存するため、山城の歴史上重要な遺跡として、
昭和九年(1934)に国の史跡に指定された。
数段に積まれた石垣は調度丸から桜馬場へ至る通路の両脇や本丸の北面で見ることができる。
本丸天守台からは七尾市街、七尾湾が一望できる。
七尾城の詳細は、
古城めぐり「七尾城」を、ご覧ください。
所在地:石川県七尾市古屋敷町夕部8−1
JR七尾線「七尾駅」から市内循環バス「マリン号」東回りで約13分、「城山の里」下車、
七尾城史資料館から本丸までは徒歩約60分
車(タクシー)の場合は調度丸付近にある駐車場から20分位で本丸にいける
七尾城のスタンプは七尾城史資料館(9.00〜16.30 月休、冬季(12/11〜3/10)は休館)にて
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