日本100名城 (32) 春日山城(かすがやまじょう)




春日山城は上杉謙信が居城とした戦国の巨大山城である。
戦国時代に越後守護代長尾為景とその子長尾景虎(上杉謙信)らが本格的に城を整備強化、 戦国時代有数の難攻不落の城になっていった。 
城の所在地の春日山の地名は、 奈良の春日神社に由来するといわれる。 
明治時代に創建された春日神社は、上杉謙信を祭神とする神社である。 
神社の左の方に向って歩くと茶屋があり、その右手の小高いところに、 上杉謙信公の銅像が建っているる。 これは昭和四十四年に、彫刻家・滝川毘堂氏の手で造られたものである。 

春日山神社
     上杉謙信公銅像      春日山城案内図
春日山神社
上杉謙信公銅像
春日山城案内図


上杉謙信公の銅像脇の道を道なりに歩いていくと、左にカーブするところに、 右に入る小道があるが、その先には空掘と虎口がある。 
その道に入らず、車道を行くと右手に上る小道があり、その先に三の丸がある。
三の丸には米蔵などがあったが、今は空地と土塁が残っている。 

説明板「三の丸」
「謙信公の養子・三郎景虎屋敷跡と米蔵跡などを総称して三の丸屋敷と呼ぶが、 それぞれの屋敷は段違いに造られ区分され、景虎屋敷跡の東端に入口が設けられ、 今も道が残っている。 」

なお、この道に入らず、その先の小道を上っていくと、 柿崎和泉中屋敷、上杉景勝屋敷があったところに出る。 
三の丸の脇を上って行くと丁字路になっていて、左手が二の丸跡である。

「春日山城」
「 本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られ、実城と共に春日山城の中心地区を形成している。 
本丸の下にあり、本丸を警護するものとして造作したもので、現在も笹井戸跡が残っている。 」

更に上って行くと、「史跡 春日山城址」 の大きな石碑が建っている。

「 春日山城は、南北朝時代に越後国守護・上杉氏が、 越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりで、 永正四年(1507)の永正の乱で、守護代・長尾為景が上杉定実を擁立して、 守護上杉房能を追放。  新守護として上杉定実が府中に入ると、長尾為景が春日山城主となり、 既存の要害に大改修が施された。  天文五年(1536)、長尾晴景が父・長尾為景から引き継ぐが、天文十七年(1548)十二月、 弟の長尾景虎(後の上杉謙信)へ家督を譲り、隠居。  代わって、長尾景虎が春日山城に入城する。 
謙信死後の天正七年(1579)に起きた御館の乱で、 勝利した上杉謙信の養子上杉景勝が入城し、上杉氏四代の城となった。 
しかし、上杉景勝が慶長三年(1598)に会津へ転封となり、堀秀治に引き継がれたが、 その子・堀忠俊は慶長十二年(1607)に直江津港の近くに福島城を新築して移ると、春日山城は廃城となった。 」

昭和十年(1935)、中世の山城として歴史的価値があるとして、 春日山城周辺が国の史跡に指定された。 
更に、昭和四十九年(1974)、 「 本来の春日山城は、主城周辺に広範囲に配置された砦や土塁、堀などの遺構を含めて、一体的に把握されるべきもの。 」 として、 春日山から南東方向に突出する尾根先端部に構築された、通称、  「東城砦 (別名、春日砦)」 部分が国の史跡に追加指定された。  

>三の丸跡
     二の丸跡      春日山城址碑
三の丸跡
二の丸跡
春日山城址の石碑


「史跡 春日山城址」 とある大きな石碑の左側の空地には、 「天守台跡」 の石碑、 右側には 「本丸跡」 の石碑と、「本丸」 の説明板がある。

説明板「本丸」
「 南となりの天守台とともに、春日山城のお天上と呼ばれたところ。 
標高180mの本丸からは、かっての越後府中(直江津)と、周辺の山々の支城跡や、 日本海が一望できる。 
関川右岸に広がる林に囲まれた村落が点在する風景は、 慶長二年(1597)の越後国絵図に描かれた中世の風景と、ほとんど変わりがない。 」

しばらく日本海に目をやり、本丸跡を後にする。 
坂を下った空地の小高いところには、「護摩堂跡」 と、「諏訪社跡」 の石碑が建っている。 
その先に上杉謙信が信奉した毘沙門堂がある。
現在の建物は、昭和六年(1931)に復原されたもので、お堂には毘沙門天が祀られている。 

説明板「毘沙門堂」
「 このお堂には謙信公が信仰した毘沙門天の尊像(青銅製約50センチ)が祀られている。 
尊像は景勝公の会津を経て米沢へ移されたが、嘉永二年(1849)の火災で被害を受けた。 
明治三年(1926)、名匠高村光雲氏が修理。 その際に分身が作られ、その後当市(当時春日村)に寄進され、このお堂に奉安された。 」

その先にはお花畑の石碑があり、林の中には、「直江屋敷跡」 の石碑が建っている。

説明板「直江屋敷」
「 上杉家の重臣、直江家の屋敷跡と伝えられ、 お花畑かあら千貫門までの間に上下三段の郭が造られている。 
現在は遊歩道があって使われなくなっているが、郭を繋ぐ古道が残っている。 
直江家は、上杉謙信公の父為景の代から重臣として仕え、 山城守兼続は景勝の家老として活躍、 景勝が会津に国替えになった時に同侍し、米沢藩三〇万石の城主になった。 」

遠望
     毘沙門堂      直江屋敷跡
本丸跡からの風景
毘沙門堂
直江屋敷跡


その先に下って行くと、「虎口」 の標示があり、説明板がある。

説明板「虎口」
「 城に入る玄関にあたるところを虎口といい、 敵が城内に直進できないように食い違いになるよう工夫されている。 
春日山城は謙信公時代に拡張され、壮大な城郭になったと考えられる。 
かってはここまでが城の範囲だったと推定される。 」 

その先は千貫門と土塁があったところである。

「 千貫門は、春日山城の古地図には必ず描かれていたことから、 古い時期から存在したようで、 今でも建っていたと思われる部分のみ、土塁が分断されている。 
その手前の三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見、道と思える切り通しがある。 
実は、これは空掘の底で、侵入者を空掘から急な崖下に落そうとしたものである。 」

写真は上から見た切り通しである。 
そこを過ぎると、春日山神社の左横に出た。 
春日山城を1周したことになる。

虎口跡
     千貫門跡と土塁      切り通し
虎口跡
千貫門跡と土塁
切り通し


所在地:新潟県上越市中屋敷字春日山ほか   
JR北陸本線「直江津駅」からバス「春日山荘前経由中央病院行き」で、約20分「春日山下」下車、本丸まで徒歩約1時間。 
JR信越本線「春日山駅」から本丸まで徒歩約1時間半。 
春日山城のスタンプは、ここにはない。
城跡から少し離れた、春日山城史跡広場ものがたり館に置かれている。
住所 : 上越市大豆334 12月から2月は休館) (9.00〜16.30 



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かうんたぁ。