日本100名城 (31) 新発田城(しばたじょう)
戦国時代に、この地の、新発田重家が本拠地にしていた旧新発田城跡に、
慶長三年(1598)、加賀国・大聖時から入封した溝口秀勝が築城したのが
現在残る新発田城である。
「 新発田城は、周囲を沼沢地に囲まれ、
会津方面に張り出す瓢箪形をした特異な縄張である。
三代宣直の時にに完成。
明治五年、建造物は取り壊され、堀も埋め立てられた。
本丸の一部を除く全域と、二の丸の一部が自衛隊駐屯地になっていて、
入場は出来ない。
残っ部分は城跡公園とっている。
遺構としては国の重要文化財に指定されている本丸表門と旧二の丸隅櫓、
本丸石垣と堀の約半分と旧土橋門付近の土居だけである。 」
本丸表門は二階建の櫓門で、二階の正面に敵を攻撃するための 「石落とし」 がある。
門が少し奥に引っ込んだ位置にあるのは、両側の石垣の上に建ってた土塀から、
門前の敵に、横矢を掛けるためである。
本丸の東側には、移築された旧二の丸隅櫓が建っている。
「 旧二の丸隅櫓は、寛文八年(1668)の大火から、
四十四年後の正徳二年(1712)の絵図に描かれているので、
このころまでには再建されたと思われる。
元は二の丸北部にあったが、昭和の解体修理の際、
本丸の鉄砲櫓のあった場所に移築された。
そのため、旧の名前が付与されている。 」
本丸北西隅に、実質上の天守として、三層三階建て、屋根が丁字型をした三階櫓が築かれた。
丁字型の屋根に、三匹の鯱が載る非常に特徴のある櫓である。
現在、この場所は自衛隊の敷地なので、立ち入ることはできない。
外から見るだけである。
「
現在の三階櫓と辰巳櫓は、 秀勝公入封400年記念事業として、
平成十六年(2004)に、写真などを基に再建されたものである。
三階櫓の外部は、白漆喰塗り、各層の腰壁は海鼠壁で仕上げている。
辰巳櫓は、外部を各層ともに白漆塗りで、仕上げられている。
三階櫓を始め本丸表門や旧二の丸隅櫓に用いられている海鼠壁は、
瓦を貼り付けたもので、板張りなどより耐性があり、寒冷地の城によくみられる。 」
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(左) 本丸表門 土橋 (右) 辰巳櫓 | | 水堀 (奥) 旧二の丸隅櫓 | | 復元された三階櫓 |
(御参考) 新発田城の歴史
「 新発田城は、源頼朝の御家人・佐々木盛綱の一族が、
この地に城を構えて、新発田氏を名乗ったことに始まる。
天正六年(1578)、新発田重家は、
上杉謙信の死後の家督相続をめぐる御館の乱(おだてのらん)で、
上杉景勝に味方したにもかかわらず、何の恩賞もなく、
不満があったので、織田信長からの誘いにのり、景勝に反旗をひるがえして、
領土を広げた。
しかし、信長が本能寺の変で斃れると状況が一変。
天正十五年(1587) 景勝に攻められ、新発田重家は討死にし、新発田城は
落城し、廃城になった。
上杉景勝の会津転封に伴い、溝口秀勝は、豊臣秀吉から六万石を賜り、加賀大聖寺から新発田へ天封となる。
慶長三年(1598)から、旧新発田城跡に築城を始めたが、
入封から五十六年後の承応三年(1654)、三代藩主宣直(のぶなお)の時代に、完成した。
しかし、完成して十五年後の寛文十五年(1675)、火災が発生し、城が焼失する。
宝永七年(1679)に再建された櫓が十一棟、主な門は五棟あったが、
明治五年、新政府の命令で建造物は取り壊され、堀も埋め立てられた。
現在、本丸の一部が城跡公園になっている。
本丸の一部を除く全域と、二の丸の一部は自衛隊駐屯地になっていて、
入場は出来ない。
遺構としては、国の重要文化財に指定されている本丸表門と旧二の丸隅櫓、
本丸石垣と、堀の約半分と。旧土橋門付近の土居だけである。 」
所在地:新潟県新発田市大手町6
JR羽越本線「新発田駅」から徒歩20分
新発田城のスタンプは新発田城表門受付(9.00〜17.00)にて
但し、冬季(12月〜3月)は非公開
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