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@大手門跡石垣は高遠城に残る唯一の石垣である。
A旧大手門は廃城後に城外に移築された大手門で、移築の際に縮少されている。
B三の丸にあった藩校進徳館は万延元年(1860)開校した儒学教育を行った学問所である。
C二の丸跡にある国の重要文化財の高遠閣は昭和十一年(1936)に建築された建物で、現在は管理事務所になっている。
D二の丸を囲む中掘(空掘)は廃城後、三メートル以上埋め立てられた。
高遠城にはその他、南曲輪と法幢院曲輪の間に外堀、本丸を囲む内堀、竪堀がある。
桜雲橋の下の内掘には池があり、桜の写り込みの風景は美しい。
E二の丸と本丸とを結ぶ桜雲橋には問屋門がある。
問屋門は昭和二十年代に城下町の問屋所跡から移築された門である。
F本丸の南西にある太鼓櫓は明治以降に建てられた櫓で、時の太鼓が置かれていた。
G城の東側に搦手門があった。 外掘に橋が架かり、堀を渡ると枡形や櫓門があり、櫓門の先には番所があったとされる。
明治八年、城跡が高遠城址公園になった後、本丸跡に城下から新城藤原神社が移築された。
また、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑、中村元恒・元起記念碑、天下第一の桜碑、
須田経哲頌徳碑や荻原井泉水の句碑、松井芒人歌碑、広瀬奇壁と河東碧梧桐の句碑がある。
広瀬奇壁 河東碧梧桐の句碑の表は高遠出身の広瀬三郎(俳号奇壁)が遠く東の仙丈ヶ岳を詠んだ句で、
「 斑雪 高嶺 朝光 鶯 啼いて居 」
裏面は奇壁と交流があった河東碧梧桐の句で、西の駒ヶ岳の残雪の雪形が駒の姿に見えるなった情景を詠っている。
「 西駒は斑雪(はだれ)てし尾を肌脱ぐ雲を 」
題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ書家、中村不折の揮毫によるものである。
高遠城の跡に旧藩士らが町内の小原の桜の馬場からコヒガンザクラを移植し、増やしてきた結果、
千五百本もの数になり、高遠は全国でも有数の桜の名所となった。
本丸の老木はこの時植えられたもので、百三十年生以上の古木が二十本、
五十年生以上のもの五百本などに若木を加えた約千五百本のタカトオコヒガンザクラが、
四月に淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつける。
紅の色のあでやかさと小ぶりな花が特徴で、地元の人達は、いっせいに咲き、ぱっと散ってしまう花のいさぎよさと、
血汐のように見える花色に、織田軍と戦い、 壮烈な死を遂げた武田の大将、仁科五郎盛信を重ね合わせ、
大事に育ってきたという。
なお、高遠城の詳細(訪問記)は 「古城めぐり 長野県5(高遠城)」をご覧ください。
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠城跡
JR飯田線「伊那市駅」からJRバス関東、高遠線で約25分、「JR高遠駅」下車、徒歩約15分
高遠城のスタンプは高遠町歴史博物館(高遠町東高遠457 0265−94−4444 9時〜17時 月休、祝日は翌日休) にて