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松本城交叉点の北に市立博物館があるが、正面の黒門前の内掘と右側の外堀に挟まる地区が二の丸だった場所である。
市立博物館の北東に太鼓門があるが、三の丸から二の丸に入る門で一の門(櫓門)、二の門(高麗門)からなる枡形門である。
文禄四年(1595)頃築かれ、門台の北石垣上に太鼓楼が置かれ、
時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源として重要な役割を果たしていた。
現在の太鼓門枡形は平成十一年に復元されたものである。
その先に「史跡松本城二の丸御殿跡」の標板と門が建っていて、中に入ると「明治天皇駐蹕遺址碑」がある。
これは、明治十三年(1880)六月に明治天皇が松本方面へ御巡幸され、
当時この二の丸御殿跡地に新築されていた松本区裁判所に立ち寄られたことを記念し、
大正十年(1921)六月に松本市民により建てられたものである。
本丸御殿焼失後、藩の政庁が二の丸御殿に移され、幕末まで中枢機関とされた。
昭和五十四年から六年間かけて発掘調査が行われ、史跡公園として整備され、平面復元されている。
本丸は水掘で囲まれていて、本丸に入る土橋の先には黒門がある。
黒門は本丸に入る正門で、高麗門と櫓門からなる枡形虎口で、本丸防衛の要である。
正面の二の門(高麗門)をくぐった枡形には、矢狭間と鉄砲狭間がある袖壁があり、
その先には一の門の櫓門が建っている。
一の門(櫓門)は昭和三十五年(1960)に復興し、ニの門と袖壁は平成二年(1990)に復元されたものである。
黒門をくぐると左手に複合連結式天守が林立し、正面には広々とした芝生空間があるが、
ここがかっての本丸御殿跡である。
本丸御殿は石川数正、康長父子時代に造営されたが、享保十二年(1727)に焼失し、
その機能は二の丸御殿に移され、再建されることはなかった。
天守閣は、五重六階の大天守を中心に、右側(北面)に三層の乾小天守を渡櫓で連結し、
反対の左側(東面)に二層の辰巳附櫓と赤い一層二階の月見櫓を複合している、
連結式と複合式が組み合わされた複雑な天守群を形成する。
乾小天守と大天守の建造時期について、天正十九年(1591)説、文禄三年(1594)説、
慶長二年説(1597)、慶長二十年説(1615)などがあるが、
石川数正とその子康長によることは間違いないのだろう。
大天守の外壁は各層とも上部は白漆喰で、下部は黒漆塗りの下見板で覆われていることから「烏城」とも称され、
国宝に指定されている。
天守閣内部に入ると矢狭間や鉄砲狭間、石落し、武者走などの実戦的な造りになっていて、
天井の小屋組も太く、柱は釿(ちょうな)削りで荒々しい。
最上階の六階の他、四階が白壁造りになっているのは御座所があったからで、
有事の際に城主の居所として設けられたものという。
最上階の西方向には内堀越しに北アルプス連山、東方向には本丸御殿跡のバックに美ヶ原等のすばらしい山並みが眺望できる。
辰巳附櫓と赤い欄干を配し風雅な雰囲気を持つ月見櫓は、第三代将軍、徳川家光が長野善光寺に参拝する途中、
松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てたものである。
家光の善光寺参拝は中止になったため家光の見参されなかったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
本丸から二の丸に出て、南西部から水堀越しに、天守閣を見上げた。
左から、三層の乾小天守と渡櫓、五重六階の大天守、二層の辰巳附櫓と赤い一層二階の月見櫓の雄姿が、
水にその影をうつしていた。
大天守は初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は二重目南北面と三重目東西面に千鳥破風、
三重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。
二重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、
寄棟を形成している結果、各重の屋根の隅が様々な方向を向いていて、松本城天守の特徴のひとつとなっている。
最上階は後世の天守閣のように廻り縁がなく、窓も小さくなっているのは冬期は寒く強風が吹くためだろう。
黒い下見板と白壁が美しく調和した天守を中心とした天守群の複雑さと組み合わせの妙は全国一。
本丸からの姿も、城外水堀越しに見た姿も、それぞれ素晴らしいと思った。
所在地:松本市丸の内4−1
JR篠の井線「松本駅」からバス「タウンスニーカー北コース」で、約6分、
「松本城黒門」下車、徒歩約3分
松本城のスタンプは松本城管理事務所(入城券売場)にて
松本城管理事務所(8.30〜17.00 年末年始は休み 0263-32-2902)