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小諸城は、小諸市街地から斜面を下るように城が作られているので、 穴城とも呼ばれるが、 正確には千曲川の段丘上に築かれた平山城である。
「 小諸城の起こりは室町時代の長享元年(1487)に信濃守護小笠原氏の流れを汲む大井光忠が、
現在の大手門北側に築いた鍋蓋城であると言われている。
天文二十三年(1554)、佐久地方を制圧した武田晴信(のちの信玄)が東信州経営のため、
山本勘助らに命じ小諸城を拡張整備させた。
天正十九年(1591)、豊臣秀吉から小諸五万石を与えられ入った仙石秀久により、織豊系城郭構えに大改造され、
現在の姿の小諸城が出来上がった。
徳川幕府誕生後の元和八年(1622)、秀久の子、忠政は隣の信州上田藩に転封になり、
その後、藩主が次々替わり、徳川氏、松平(久松)氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏と続くが、
その度毎に石高を減らし、牧野康重が越後与板より入封した時は 一万五千石になっていた。
以後、牧野氏は明治維新まで小諸城の城主となったが、維新後は廃城処分となり、施設は壊されたり、売却された。
荒廃していく小諸城を憂いた旧小諸藩士達は、資金を集めて小諸城を払い受け、花木を植えて公園にし、懐古園と命名した。 」
しなの鉄道及びJR小海線の小諸駅の北西に、小諸宿本陣主屋がある。
小諸は城下町であると同時に北国街道(善光寺道)の宿場であった。
本陣の右上(浄斎坂)の大手門公園内の市営大手門公園駐車場の隣にあるのは大手門である。
説明板「日本城郭建築初期の代表格 小諸城大手門」(国指定重要文化財)
「 大手門は小諸城の正門(四之門)で、慶長十七年(1612)、藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築。
二層入母屋造の楼門で、石垣と門が一体化していないことや一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、
二階は居館形式をとっていることなど、多くの特徴があります。
この門を建てる際に、大工を江戸から呼び、瓦は三河(現在の愛知)から運んだとされ、
当時はまだ瓦葺きの屋根が珍しかったため、瓦門とも呼ばれました。
明治維新後は民有になり、小諸義塾の仮教室として、また、料亭として利用されてきましたが、
平成二十年、江戸時代の姿に復元されました。 この実戦的で華美をはぶいた質素剛建な
建築は、青森県の弘前城とともに大手門の双璧といわれています。 」
上部(北側)の丘陵部は町人の城下町で、下部が小諸城である。
線路前に降り、地下道をくぐると、「C56144」のプレートの付いた蒸気機関車が展示されていた。
懐古園の入口にある三の門は、忠政によって建てられたもので、
寄棟造りの二層の城門で、両塀には矢狭間や銃丸が付けられた戦闘式の建物である。
元和年間に建てられたが寛保二年の大洪水で流失、明和年間に再建されたものである。
門の正面に徳川家達公の筆「懐古園」を写筆した大きな額が掲げられている。
門を入ると右側に石垣があり、その下の建物に「野面積の石垣が物語る 仙石秀久が築いた
穴城」の看板があったが、小諸城は浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、
西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されている。
この石垣には圧倒されるが、これは二の丸の石垣である。
この先に入場券売場があり、購入して中に入ると、二手に分れ、左は動物園方面で、蕎麦屋がある。
右の道を上って行くと、突き当たりに石垣が見えるが、これは南の丸跡である。
ここは枡形になっていて、枡形を右に曲がると南の丸の石垣の下に「二の門跡」跡の標柱が建っていた。
この上に、二の門があったのだろう。
枡形の先の右側に石段を上ると、「二の丸跡」の標石が建っていた。
二の丸跡は削り取られ整地され、今は大型社駐車場と第1駐車場に変っている。
二の丸石段の左手に若山牧水の歌碑がある。
「 かたはらに秋くさの 花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな 牧水 」
右側の石垣残るところに「中仕切門跡」の標木が建っていた。
江戸時代には手前の右側に番所があったようである。
中仕切門の先の奥まったところの建物前に「北丸跡」の標木が建っている。
懐古園稲荷神社が祀られていた。
説明板「稲荷神社」
「 牧野氏が元禄十五年(1702)に与板より入封した際、稲荷神社を遷座し、城下の赤坂の地に祀った。
城内の富士見にはそれ以前から城の守護神として稲荷社が祀られていて、武田氏との由緒と伝えられていて、明治の城の廃止まで続いた。
その後、城の稲荷社と赤坂稲荷神社を合祀し、現在の場所に移して祭ったのが懐古園稲荷神社である。 」
その先には紅葉谷に架かる黒門橋があり、その奥には本丸の石垣が見えた。
小諸城の縄張図を見ると、連結式に曲輪が配置され、城の東西に三重四重に空堀が連なって掘られ、
本丸、二の丸などの城の中核部は全て総石垣造りで、天守台が少し張り出 したような配置になっている。
黒門橋は紅葉谷の空堀に架かる橋で、橋を渡った右側に「黒門跡」の標木が建っていた。
正面に本丸の石垣で、懐古神社の案内板と道標が建っている。
「←本丸跡、馬場、天守台等 水の手展望台、藤村詩碑等→」である。 左に向う。
正面と右側に石垣があり、枡形をなしているように思えた。
その先、左側の石垣前には「お駕籠台跡」の表示があった。
二の丸跡などにある石垣は四百年前の野面積みで天守台も当時のものである。
本丸跡に建立されたのが懐古神社で、城跡は懐古園と名付けられた。
懐古神社の案内板の近くの石垣前には「お駕籠台跡(おかごだいあと)」の標木があった。
石垣の間をくぐると懐古神社の鳥居が現れた。
鳥居の両脇には「小諸城址」の石柱と「懐古園」の大きな標柱と「本丸跡」の標木があった。
その奥、右側の「従是西小諸領」と刻まれた標石は領界石と呼ばれるもので、
文化三年(1806)、当小諸藩の東境である軽井沢の追分の原に建てられたものをここに移築したものである。
なお、「従是東小諸領」は西の境の笠取峠に建てられた。
鳥居の先にあるのは懐古神社の社殿である。
明治十三年四月、廃藩後荒れ果てた小諸城跡を整備し懐古園となすに当たり、
本丸東北に鎮座していた天満宮、火魂(荒神)社の二社と藩主牧野公歴代の霊を合祀し、懐古神社が創建された。
社殿手前の左側に山本勘助が常に愛用していたと伝えられる鏡石がある。
社殿の右手に行くと石段があり、上った先が天守台で、「天守閣跡」の石柱が立っている。
天守閣は仙石秀久により築かれた桐紋の金箔押瓦で葺いた三層の天守閣であったが、
寛永三年(1626)に落雷により焼失した。 その後再建はされなかった。
天守台は当時のままの姿で残っている。
反対側に降りると、「紅葉ヶ丘」の石柱があり、
「 天神社荒神社が祭られたところで、明治時代は矢場として使用した。 」 とある。 落ちた紅葉が美しい。
天守台に沿って右に廻っていくと、左の上に蕎麦屋があるが、道の縁に「荒神井戸」がある。
左側には藤村記念館があり、近くには藤村の銅像や「椰子の実」の詩碑がある。
なお、右手奥の水の手展望台の近くには島崎藤村の千曲川旅情の歌の碑が建っている。
所在地:長野県小諸市丁311
JR小海線・しなの鉄道「小諸駅」から徒歩約5分
小諸城のスタンプは懐古園事務所(8.30〜17.00、0267-22-0296 12月〜3月中旬は毎週水曜日休) にて