日本100名城 (26) 松代城






松代城は永禄三年(1560)頃、武田信玄が北信濃を支配するため築城した城で、築城当初は海津城と呼ばれ、 日本の合戦史に名高い武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島の戦いの舞台となった。 
信玄の死後、織田信長の家臣や上杉景勝の部将が入城するなど、城主が変り、 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、城主になった森忠政の頃、二の丸、三の丸を整備し、 土塁を石垣に築きなおしたものと考えられる。 
森忠政転封後、家康の六男、松平忠輝、甥の松平忠昌、酒井忠勝と城主は変ったが、 元和八年(1622)、真田信之が上田城から移封されて以降、明治の廃城までの約二百五十年間、 松代藩真田家十万石の居城になりました。  
松代城は北西側を流れる千曲川を自然の要害(外堀)として造られた平城で、 最奥部に本丸、南側の城下に向けて、二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を構えていました。 
なお、真田家三代藩主真田幸道のときに名を海津城から松代城と改めたといわれる。 
  江戸時代の半ばには水害などにより、本丸御殿の機能は城の南西に位置する花の丸御殿に移った。 
明治五年(1872)の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和五十六年(1981)に、 本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されている。 

松代城図
松代城図



平成十六年、本丸太鼓門と太鼓門前橋、北不明門、二の丸土塁が復元された。 
太鼓門は本丸の大手を固めていた門で、手前の橋詰門(高麗門)と奥の太鼓門(楼門)で枡形を形成する。 
太鼓門の先は本丸跡。 本丸の戌亥隅に櫓台の石垣が残っている。 城内に現存する石垣の中では最も高い。 

太鼓門前橋と橋詰門(高麗門)
     太鼓門(楼門)      戌亥隅櫓台石垣
太鼓門前橋と橋詰門(高麗門)
太鼓門(楼門)
戌亥隅櫓台石垣



「海津城址の碑」の隣にあるのは復元された北不明門である。 
案内板には、 「 本丸の裏口(搦手)に位置する門で、太鼓門と同様に櫓門と表門(高麗門)の二棟による構成である。  十八世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、水之手門とよばれたことがある。  絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。  楼門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。 」 とあった。 

北不明門櫓門
     桝形      北不明門表門(高麗門)
北不明門櫓門
桝形
北不明門表門(高麗門)



二の丸を巡っていた長大な土塁のうちの南側と東部部分が復元整備された。 
本丸の東側が二の丸跡で、二の丸と本丸の間に東不明門前橋が架かっていた。 
太鼓門を南に少し行ったところに、二の丸南門だった門の石垣が残っていて、 「史跡松代城跡」の石碑が建っている。 

復元された土塁
     東不明門前橋      二の丸南門跡
復元された土塁
東不明門前橋
二の丸南門跡



真田邸は、文久二年(1862)、参勤交代制度の緩和にともい、妻子の帰国が許されたことから、 松代城の外に造られた居館で、明治以降は真田家の私邸として利用された。  敷地には、蔵、長屋、門、番所、庭園などが残っている。 
松代城跡は昭和五十六年(1981)に真田邸とともに国の史跡に指定された。 

真田邸
     真田邸玄関      真田邸庭園
真田邸
真田邸玄関
真田邸庭園



所在地:長野県長野市松代町松代44 
JR長野新幹線、長野駅から川中島バスで「松代行き」で約30分、松代駅下車、約5分 
長野電鉄屋代線、松代駅から徒歩約5分 
松代城のスタンプは旧真田邸(年中無休、9時〜17時)にて 



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かうんたぁ。