日本100名城 (25) 甲府城






甲府城は古くは甲斐府中城、また、その形から舞鶴城とも呼ばれた。 

「 天正十年(1582)の天正壬午の乱で、織田信長、徳川家康により、武田氏は滅亡した。  同年、本能寺で織田信長が死んだ後は、甲斐の国は家康の支配になりました。 
天正十八年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を倒し、日本統一を果たすと、秀吉は東海、甲斐、信濃を 領する家康に対し、関八州に移動を命じました。 また、関東の家康を見張る城として甲府城を 築城しました。 
築城は甥の羽柴秀勝、次いで腹心の加藤光泰に引き継がれ、 豊臣政権の重臣、浅野長政、幸長父子によってほぼ完成したが、秀吉は慶長三年(1598)に病死する。  慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は江戸幕府を誕生させたが、甲府を天領とし、 江戸城で異変があったとき、避難する先として甲府城を想定し、甲府に通じる甲府街道を整備した。 
また、甲府城主に徳川一門の徳川義直を任命、その後も忠長、綱重、綱豊(将軍家宣になる)が甲府藩主を務めた。 
甲府藩は将軍家に最も近い親藩なので、藩主は江戸定府のため、 武田氏の遺臣である武川衆(武川十二騎)を中心をした城番が藩政を行った。  宝永元年年(1704)、徳川綱豊が綱吉の養子として江戸城に入り、 将軍家宣になった翌年の宝永二年(1705)に武川衆の血を引く柳沢吉保、吉里親子が藩主となり、 甲府城と城下町は整備をさせ、大きく発展した。 
享保九年(1724)柳沢氏は大和郡山の転封されると、甲斐一国が幕府領(天領)となり、甲府勤番の支配となりました。 
明治になると、甲府城は廃城令により、主な建物は破壊されました。  城跡は勧業試験所、甲府駅、甲府中学、県庁、県民会館などに使われたが、昭和四十三年(1968)に県指定史跡になり、 本丸を中心とした部分は、明治三十七年(1904)に舞鶴公園となって今日に至っている。 」 

甲府城全体図
甲府城全体図




甲府城の元の大きさは甲府駅北の藤村記念館から南は県庁の南までで、明治期に約六万坪あったが、現在は二万坪である。 

「 甲府城は内堀、ニノ堀、三の堀と三つの堀があり、 内掘内には天守台や本丸、諸曲輪があり、北側に山手門、南側には追手門、西側には柳門があり、城への出入口となっていた。  また、ニの堀内には甲府勤番役宅や勤番士の屋敷、年貢米を集積する米蔵やお花畑、薬園、学問所の徽典館などの諸施設があった。  三ノ堀内が町人が住む地で、北側の古府中と南東の新府中で構成された甲府の城下町だった。 」 

甲府城を囲む三つの堀は埋め立てられてしまい、目の前の内掘だけが残っている。 
内堀に架かる遊亀橋を渡った先は枡形虎口で、江戸時代には追手門があり、守りを固めていたところである。 
右側に「勧業試験所跡」の標示があるが、ここが鍛冶曲輪跡である。 左側は日本庭園と舞鶴城公園管理事務所がある。 
これらの正面には甲府城本丸の石垣がぐるーっと取囲んでいる。 

内堀と遊亀橋
     鍛冶曲輪跡      天守曲輪石垣
内堀と遊亀橋
鍛冶曲輪跡
天守曲輪石垣



鍛冶曲輪跡の広場を進むと右側に数寄屋櫓跡の表示板があり、

「 「数寄屋櫓は別称巽櫓、城内で最も東に建てられた櫓で、明治初年までは残っていた。 」 

左手には「石切場跡」の表示があるが、甲府城は安山岩の岩山の上に造られていて、 石切り場には石垣の石を切り出す際の矢穴が残っている。 また、明治天皇の詠まれた歌碑が建っていた。 
石段を上り、左にカーブする道を行くと、右手の石垣の上に白漆喰で覆われた塀が続いている。  このあたりが江戸時代の数寄屋曲輪跡である。 
道の先の両脇が塀で狭くなっているところに出た。 かっては門があったと思われる。 

石切場跡
     数寄屋櫓跡      数寄屋櫓跡
石切場跡
数寄屋櫓跡
数寄屋櫓跡



そこをぬけると稲荷曲輪跡にでる。 今は広場になっていて、、「庄城稲荷跡」の説明板がある。 

「 ここには築城以前から一条小山の守護ともいわれる庄城稲荷があった。  現在は遊亀橋の東側に祀られている。 」 

左手の奥には高麗門があり、稲荷曲輪門の説明板が立っている。 

「 稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門で、発掘調査によって柱の跡などが見つかりました。  享保の火災でも燃えず、明治初年まで残っていたものを平成十一年に復元しました。 」  

「稲荷社跡」の説明板の北方の石垣に「二重の石垣」の説明板がある。 

「 石垣を解体調査したところ、その背後から石垣が現れ、積み直しが行われていることが分かりました。 」 とある。  上の部分が先に造られていた石垣で、手前の石垣は奥の石垣を埋めて造られた石垣である。  この稲荷曲輪の石垣は城内に残る一番立派な石垣で、東側は高さ十七メートルと関東で最も高い石垣である。 」 

この石垣は稲荷櫓に接する石垣なので、稲荷櫓を建立された時に築かれたのだろうと思った。 
なお、甲府城の石垣は時期により積み方が違い、 四百年前の築城当時は野面積み 、江戸中期は切石積み、江戸後期は間垣積みである。 

稲荷曲輪跡
     稲荷曲輪門      二重の石垣
稲荷曲輪跡
稲荷曲輪門
二重の石垣



稲荷曲輪の石垣の先には門があったと思われる空間があり、その先に稲荷櫓がある。 

説明板「稲荷櫓」
「 稲荷櫓は城内の鬼門(北東)に位置することから、艮(うしとら)櫓とも呼ばれた。  江戸時代には武具蔵として使用されていたもので、絵図や資料に基づき、 南東五間(10m)東西六間(12m)の二階建、入母屋造、瓦葺、白壁の建物を平成十六年(2004)に復元した。 」 

その先の共同トイレ前の四角のコンクリート部分には 甲府城の硝石・火薬を貯蔵する煙硝蔵(えんしょうぐら)があった。 

「 発掘調査により、焔硝蔵は地表から1.8メートル程度地下の底部に石を敷き詰め、 建物の基礎としていたという。 煙硝蔵は全国のどの城にまあったが、地下構造で、 特別な防湿構造を持っているのは珍しい遺構とあった。 」 

稲荷櫓
     煙硝蔵跡      本丸への坂
稲荷櫓
煙硝蔵跡
本丸への坂



本丸に向って坂を上る。 
坂を上り切ると右側に本丸櫓跡の説明板があり、 「 本丸櫓は城内の中心に建てられた 櫓で、明治初年までは残っていたが古写真でわかっています。 」 とあった。 
また、石垣の下に暗渠があり、説明板には 「 雨水などが盛土と石垣内に溜まると 石垣が不安定になるので、暗渠は効果的に排水するためのものである。 」 とあった。 
  この前の空間が本丸跡である。 南西角には大きな謝恩碑が建っていた。 
謝恩碑は山梨県が明治天皇から森林をいただいたことを記念して建てたものである。 

本丸櫓跡
     暗渠      謝恩碑
本丸櫓跡
暗渠
謝恩碑



東側の高い石垣は天守台だが、天守が建てられたか否かの論争があるようである。 

「 宝永三年、甲斐国を訪れた荻生徂徠が「峡中紀行」で「 甲府城天守は存在しなかった。  」 と記しているので天守の存在に関しては否定的とするのが多数派だが、 出土した金箔瓦や鯱瓦などは各地で天守のある城郭を築いた豊臣系大名特有のものなので 、一時的ではあるが天守が存在していたという説を唱える人もいる。 」 

天守台からの展望は富士山も見え、360度のパロラマになっていた。 
本丸の一角には「明治天皇御登臨之阻 山梨県 」 の碑がある。 
本丸の西北側にトイレがあり、その先の両側の石垣の間に江戸時代には銅門(あかがねもん)があり、 説明板には 「 銅門は天守曲輪から本丸に通じる西側の門で ある。 礎石は御城を建てた当時のものである。 」 とある。 

天守台
     明治天皇御登臨之阻      銅門跡
天守台
明治天皇御登臨之阻
銅門跡



門跡を下っていくと、左手(南)にある武徳殿は二の丸跡である。 
直進した先の高麗門は平成十一年(1999)に復元された内松陰門である。 
一方、本丸の南側には天守曲輪から本丸に通じる左右に石垣を有した二階建ての櫓門がある。 

「 創建当初は南門と呼れたが、柳沢氏時代に改称されて鉄門(くろがねもん)と呼ばれるようになったという。  明治九年(1876)頃に解体されたが、平成二十五年(2013)に潜戸付渡櫓門として復元された。 」 

下に降りていくと、天守曲輪跡に出て、そこには「中の門跡」 の説明板があり、  「 中の門は天守曲輪、本丸に通じる門で、絵図に柵門として描かれている。 」 と書かれていた。 
その先には「坂下門跡」の説明板があり、「 鍛冶曲輪と天守、二の丸を繋ぐ門である。  江戸時代の書、「裏見寒話」には城を建てる前にあった一蓮寺の門を使用していた。 」  とあった。 
石段を降りると、恩賜林記念館があり、その南西に薬医門(切妻四脚門)形式の鍛冶曲輪門が建っている。  この門は平成九年(1997)に復元されたものである。 

内松陰門
     鉄門(くろがねもん)      鍛冶曲輪門
内松陰門
鉄門(くろがねもん)
鍛冶曲輪門



所在地:甲府市丸の内1−5−4
JR中央本線甲府駅南口から徒歩5分。 
甲府城のスタンプは舞鶴城公園稲荷櫓(9時〜16時)
または舞鶴城公園管理事務所(8時30分〜17時 055-227-6179) にて。 



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かうんたぁ。