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本丸にあたる一辺二百メートルの主郭は石積み(土塁)で仕切られ、
東曲輪と中曲輪からなり、東曲輪で政務が行われ、
中曲輪は当主の日常の居住空間で、主殿を始めとする武田家の屋敷が庭園とともにあった。
東曲輪には馬場、厩などがあり、東側に大手口、角馬出が備えられ、北にも虎口があった。
水堀を隔ててあった西曲輪は、信玄の嫡男、義信の新居として増築されたところである。
「 今川軍の侵攻を巡り、今川義元の娘を妻とする義信との親子のいさかいが起き、 義信は幽閉され、自害に追い込まれ、義信の妻は今川家に返された。 それ以降、西曲輪は人質曲輪ともいわれたようである。 」
西曲輪の北には兵糧を保管した味噌曲輪とその東側には無名曲輪と信玄の母、 大井の方の居所である御隠居曲輪があった。 西曲輪の南には武田氏以後の増築である梅翁曲輪があった。
「 信玄の子、勝頼は家臣の反対を退けて、天正十年(1582)、韮崎市に新府城を築き、 移転したが、勝頼が敗退し、武田家が滅び、家康が甲斐を支配すると、甲斐支配の主城とされ、館域は拡張され、 天守も築かれた。 天正十八年(1590)、家康の命により、平岩親吉が甲府城が構築して移転したため、武田氏館は廃された。 」
現在残るのは、主郭であった武田神社を中心にそれを囲う水堀と土塁などである。
大正八年(1919)、武田氏館跡に武田信玄を祀る武田神社の本殿を建立した時、
南の石垣を崩し、正門を新たに造ったが、その際、三重構造の原型の大半が崩されてしまった。
東曲輪には武田氏ゆかりの品々を展示した宝物殿がある。
その近くにある井戸には「信玄公御使用井戸」の説明板があり、
「 躑躅ヶ崎館の中心部に掘られた井戸で、当時の生活を偲ばせる貴重な遺構である。 」 とあった。
宝物殿の東側には駐車場、その先に堀があり、車道の先に「武田氏館跡大手」の説明板が立っている。
現在の武田神社の正門は南側にあるが、武田氏館は南側は水堀と土塁で囲まれていて、正門は東側の大手門であった。
ここからは発掘調査で大手石塁と三日月堀が発見された。
訪れた時は味噌曲輪跡の発掘調査が行われていた。
武田氏館の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「武田氏館」をご覧ください。
所在地:甲府市古府中町2611
交通:JR中央本線甲府駅北口より2.2km。
甲府駅から北に向って緩やかな登り道を三十分程歩くと武田神社がある。
バス約8分「武田神社」下車、徒歩すぐ。
武田氏館のスタンプは武田神社宝物殿にて。