日本100名城 (24)  武田氏館(たけだしやかた)





武田氏館跡は昭和十五年(1940)に国の史跡に指定された。  

「 武田氏館は、甲斐源氏の流れを組む武田信虎が永正十六年(1519)、石和から館を移したことに始まる。  その後、信玄、勝頼と武田氏三代にわたり、六十三年間、武田氏の居館、政庁であった。 
相川扇状地の頂部を三方に囲まれた要害地に建てられ、四方に掘と土塁を巡らせた館で、 躑躅ヶ崎にあることから、躑躅ヶ崎館と呼ばれた。   館の広さは周囲の堀を含めて東西二百八十四メートル・南北百九十三メートルで、 面積は約一万四千坪(約4.6万u)であった。  城構えは外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中央に東曲輪、中曲輪からなる主郭と西曲輪、 入口の両側に隠居曲輪と味噌曲輪、後方に家臣屋敷と梅翁曲輪等の副郭を配置した平城形式であった。  また、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっていた。 
館の外には、堀沿いに穴山梅雪、板垣信方、高坂弾正、小山田信茂らの重臣たちが屋敷を配置し、 館の南方には京都を意識した格子状に整備された城下町が造られ、 城下の出入口の東西に市を設け、城下西部には天文五年(1536)に開設された八日市場、 城下東部には大永六年(1526)には開設された三日市場があった。 
また、躑躅ヶ崎館は平地の館なので、戦闘の時は不利なので、 館の北二キロの標高七百七十メートルの要害山に詰の城として要害城を築かれていた。 」

武田氏館周辺図
現在の武田氏館周辺図




本丸にあたる一辺二百メートルの主郭は石積み(土塁)で仕切られ、 東曲輪と中曲輪からなり、東曲輪で政務が行われ、 中曲輪は当主の日常の居住空間で、主殿を始めとする武田家の屋敷が庭園とともにあった。  東曲輪には馬場、厩などがあり、東側に大手口、角馬出が備えられ、北にも虎口があった。 
水堀を隔ててあった西曲輪は、信玄の嫡男、義信の新居として増築されたところである。 

「 今川軍の侵攻を巡り、今川義元の娘を妻とする義信との親子のいさかいが起き、 義信は幽閉され、自害に追い込まれ、義信の妻は今川家に返された。  それ以降、西曲輪は人質曲輪ともいわれたようである。 」 

西曲輪の北には兵糧を保管した味噌曲輪とその東側には無名曲輪と信玄の母、 大井の方の居所である御隠居曲輪があった。  西曲輪の南には武田氏以後の増築である梅翁曲輪があった。 

「 信玄の子、勝頼は家臣の反対を退けて、天正十年(1582)、韮崎市に新府城を築き、 移転したが、勝頼が敗退し、武田家が滅び、家康が甲斐を支配すると、甲斐支配の主城とされ、館域は拡張され、 天守も築かれた。  天正十八年(1590)、家康の命により、平岩親吉が甲府城が構築して移転したため、武田氏館は廃された。 」

現在残るのは、主郭であった武田神社を中心にそれを囲う水堀と土塁などである。 
大正八年(1919)、武田氏館跡に武田信玄を祀る武田神社の本殿を建立した時、 南の石垣を崩し、正門を新たに造ったが、その際、三重構造の原型の大半が崩されてしまった。 

水堀
     武田神社石段      武田神社
主郭を囲む水堀
石垣を壊して造られた石段
武田神社拝殿



東曲輪には武田氏ゆかりの品々を展示した宝物殿がある。 
その近くにある井戸には「信玄公御使用井戸」の説明板があり、  「 躑躅ヶ崎館の中心部に掘られた井戸で、当時の生活を偲ばせる貴重な遺構である。 」 とあった。 
宝物殿の東側には駐車場、その先に堀があり、車道の先に「武田氏館跡大手」の説明板が立っている。  現在の武田神社の正門は南側にあるが、武田氏館は南側は水堀と土塁で囲まれていて、正門は東側の大手門であった。 
ここからは発掘調査で大手石塁と三日月堀が発見された。 
訪れた時は味噌曲輪跡の発掘調査が行われていた。 

宝物殿
     信玄使用の井戸      大手跡
宝物殿
信玄使用の井戸
大手跡



武田氏館の詳細(訪問記)は、 古城めぐり「武田氏館」をご覧ください。

所在地:甲府市古府中町2611 
交通:JR中央本線甲府駅北口より2.2km。 
甲府駅から北に向って緩やかな登り道を三十分程歩くと武田神社がある。 
バス約8分「武田神社」下車、徒歩すぐ。 
武田氏館のスタンプは武田神社宝物殿にて。 



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かうんたぁ。