日本100名城 (19) 川越城(かわごえじょう)






川越城は幕閣重鎮が城主となった江戸背後の拠点城郭で、 長禄元年(1467)、扇谷上杉氏の家臣、太田道真、道灌父子が築城したことに始まる。

「 川越城は、武蔵野台地の北東端に位置する平山城で、扇谷上杉持朝の家臣、 太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)父子が長禄元年(1457)に家臣たちに命じて築城させた城である。 
江戸幕府が開かれると、江戸の大手は小田原城、搦手は川越城といわれるほど江戸にとっては重要な城で、 徳川家の譜代大名が代々城主になった。  智恵伊豆と呼ばれた松平信綱(まつだいらのぶつな)が寛永十六年(1639)に城主となると、 何年にもわたって城を改修拡張するとともに城下町を整備した。  慶安四年(1651)、近世城郭としての川越城が完成した。 
川越城は土塁、水堀を張り巡らした城の総面積が九万九千坪(約三十二万六千u)余の大城郭となった。
本丸、二の丸、三の丸に、八幡曲輪、中曲輪、追手曲輪、外曲輪、田曲輪、新曲輪、帯曲輪で構成され、 本丸の富士見櫓(南西隅)と虎櫓(北西隅)、二の丸の二重の菱櫓など三つの櫓、 西大手、南天手、一、二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、新郭、埋の十三の門からなる縄張であった。」

下記は現在の地図に川越城を重ねたものである。 
当時の川越城は本丸と二の丸が堀で区画され、二つの郭から構成されていた。 

「 本丸御殿は、川越城には鷹狩などでたびたび将軍の御成りがあったという記録が残り、 将軍のための御成御殿だった、と考えられる。  二の丸には、智恵伊豆と呼ばれた松平信綱が慶安四年(1651)に、藩主御殿を建てた。 
元禄十五年(1702)に写された「武州河越御領分明細記」には「二之丸御屋形」とあり、 本丸御殿に関する記述がないことから、本丸御殿はこの頃すでに解体されていた、と考えられる。 」

川越城
川越城全体図



江戸時代末の弘化三年(1846)、二の丸御殿が火災で焼失してしまう。  再建の際、当時空地になっていた本丸が用地に選ばれ、 嘉永元年(1848)、越前松平家、松平斉典により、本丸に御殿の造営が行われた。

「 新たな本丸御殿は、建物の数十六棟、千二十五坪にも及ぶ広大なもので、 城主の住まいだけでなく、城主が政務を行う場や家臣達が常駐する部屋なども設けられ、 文字通り城の中心となる建物だった。 
明治四年(1871)、廃藩置県により、入間県の県庁になったり、 入間郡公会所、煙草工場、初雁武徳殿、市立中学校などになったが、 昭和四十二年(1967)、大規模な修理工事を行い、屋根の修理や間口の復元を行い、現在の姿になった。 」

玄関は巨大な唐破風屋根に間口三間の広い開口部と八寸角の太い柱が、 十七万石の大名屋敷にふさわしい威容を感じさせる。  その先の横に長い建物には三十六畳の大広間の他、使者の間や鶴の間など、合計七の部屋があり、 来客は城主のお出ましまでの間待機した部屋と思われる。  城主との対面は南側にあった大書院で行われた。 

「 巨大な建物だったという大書院は明治初期に解体されてしまったが、 本丸御殿南端の柱群には書院の部材が入れられていたホゾ穴などの痕跡が残っているという。 
明治四年(1871)、廃藩置県により入間県ができると、川越に県庁が置かれ、 本丸御殿の玄関と広間部分は庁舎として利用されることになった。  また、広間の南西側に建物が増築された。  これは南側にあった大書院などの部材が再利用されたと考えられる。 」

左奥にある少し下がったところにある建物は明治棟と呼ばれ、現在はトイレと第一展示室になっているが、 これが増築部分の一部だろうか?  
大広間の左奥には西続く廊下があり、右側は坊主当番詰の部屋で十二畳、第二展示室になっている。 
廊下はその先で終わっているが、現在庭になっているところに江戸時代は大廊下が延びていたといい、 庭に埋め込まれた瓦は広間の裏の大廊下の柱の位置を示している。 
なお、座敷を取り巻く廊下は場所によっては床の材質が異なる。 
玄関のある東側部分及び中ノ口部分はけやき、南側から西側の広間西側部分は栂、松などが使用されている。 

本丸御殿前景
     本丸御殿玄関      庭園
本丸御殿前景
本丸御殿玄関
大廊下があった庭



廊下の突き当たりを右折すると、家老詰所がある。

「 家老詰所は本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物で、 藩主は参勤交代があったため、藩政は実質的には家老が行っていた。  創建当時の家老詰所は広間西側から西に延びる大廊下の先にあったというが、 明治初期に売却され、現ふじみ市の商家に移築されていたが、 昭和六十二年に現在地に移築されたという。 
家老詰所には記録方詰所、年寄詰所、ニ之間、家老詰所などがあった。 」

館内には当時の執務風景を再現している人形があった。 
もと来た道を戻ると、「中の口」という説明板がある。

「 正面玄関に比べ、間口二間半と一回り小さな玄関である。  正面の壁の柱は玄関より見た目を整える装飾のための柱で、半柱と呼ばれる。  屋根の荷重のかからない柱である。 」 

本丸御殿の東にある三芳野神社はわらべ唄の「とうりょんせ」の発祥の地といわれる神社である。

「 三芳野神社は川越城内の天神曲輪に建てられたため、「お城の天神様」として親しまれ、 七五三参りには町民も入ることができた。  その際、川越城の南大手口から入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、 東に向う小道を進み、三芳野神社へ直進する道を通ってお参りをしていた。  お参りするまでは期待とうれしさで進むが、お参りをすませると城の門番の監視の目が気になり、 「帰りはこわい」となったようである。  この細い道が「童うた」の歌詞の発生地と云われる。 」

執務風景
     中の口      参道
執務風景
中の口
三芳野神社参道



三芳野神社は平安時代初めの大同年間(806〜810)の創建といわれ、三芳野十八郷の惣社として崇敬を集めた。

「 寛永元年(1624)、川越城主、酒井忠勝は幕府の命を受けて、川越城内の天神曲輪に再建した。  社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造りで、屋根はこけら葺き形の銅板葺き、 外部は朱漆塗りを基調とし、内部は軸部を黒漆塗りとしている。  その後、明暦二年(1656)、弘化四年(1848)、大正十一年に改修されていて、屋根などに創建当時と変わっている部分がある。 」

三芳野神社から「とうりょんせ」の舞台となった道を歩き、三叉路を右折して少し行くと、右手に小山がある。 
この山頂に以前は天守の代用となった富士見櫓が建っていた。 

「 富士見櫓は川越城の櫓の中では最大のもので、三重三階もしくは二重二階だった推定され、 基壇の高さは五十一尺(15.4m)、櫓の高さは五十一尺(15.4m)だった。 
途中に富士見権現大神の社と御嶽神社と浅間神社があり、頂上に空地になっている富士見櫓跡があった。 」

明治維新の明治元年(1868)、藩主の松井松平家、松平康英は、明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋めた。

「 明治二年(1869)、川越藩は新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが始めた。  その結果、川越城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さだったが、  その大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館と川越市立美術館、 三の丸跡は埼玉県立川越高等学校になっている。 」

現在も残る遺跡は本丸御殿、家老詰所、富士見櫓台跡、堀と土塁の一部のみである。 

三芳野神社
     小山      富士見櫓跡
三芳野神社
富士見櫓があった小山
富士見櫓跡



所在地:埼玉県川越市郭町2−13−1  
東武東上線・JR川越駅および西武新宿線本川越駅から東武バスで「新明町車庫行き」で約10分、 札の辻下車、徒歩約8分    または、市内循環バスで博物館前で下車、徒歩約8分 
川越城のスタンプは川越城本丸御殿(9時〜16時30分、但し月、第4金休) 受付で、博物館でも可である 



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かうんたぁ。