日本100名城 (18) 鉢形城(はちがたじょう)
鉢形城は豊臣軍とわたり合った北武蔵の堅城で、
荒川の河岸段丘に、文明八年(1560)、山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したとされる城である。
「 鉢形城は、関東管領、山内上杉氏の家臣である長尾景春が、文明八年(1476)に
荒川の河岸段丘上に深沢川の谷も取り入れて築城したのが最初。
天文十五年(1546)には、北条氏三代、北条氏康が川越城を包囲した上杉朝定、上杉憲政を打ち破る河越夜戦が起きたが、
それに勝利した北条氏は武蔵国における覇権を確立した。
永禄七年(1564)、 氏康の四男、北条氏邦が鉢形城へ入城し、城を拡張整備し、
以後、北条氏の北関東支配の拠点となった。
鉢形城は戦略上の重要性から、その後も戦国大名の攻防の場となり、
永禄十二年(1569)には武田信玄による攻撃を受け、天正二年(1574)には上杉謙信が城下に火を放っている。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、
鉢形城は豊臣方の三万5千人の大軍(前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、
鳥居元忠の連合軍)により囲まれ、
北条氏邦の老臣、黒澤上野介ら三千人が約一か月の籠城戦を展開したが、
氏邦は城兵の助命を条件に城を明け渡し、戦いの後間もなく廃城になった。 」
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているので、両川が谷を刻む断崖上の天然の要害をなしている。
その縄張りは南西側に大手、外曲輪、三の曲輪の三つの曲輪を配し、
北東側に二の曲輪、本曲輪、笹曲輪がある、連郭式の平山城である。
「 城の東、南、北は荒川と深沢川の断崖で守られ堅固だが、西側が開けているため、
城主の居館や上級武士の館がある本曲輪から西側には幾重にも深い堀切を行い、
ニの曲輪、三の曲輪などの曲輪を造り、その外側に寺院を配置し、寺町として防備を厚くしている。
北条氏邦が鉢形城へ入城し、城を拡張整備した際、外曲輪と大手として西に逸見曲輪や大光寺曲輪を築き、
深沢川の対岸の南側にも外曲輪を造成し、下級武士の住宅などにした他、その南側を城下町にした。
各曲輪は堀と土塁で囲み、主要な出入口(虎口)には方形の馬出を設け、曲輪毎に武将を配置して
守らせた。 」
鉢形城は関東地方にある戦国時代の城郭としては比較的きれいに残った城のひとつといわれ、
昭和七年(1932)に国の史跡に指定された。
近年の発掘調査に基に曲輪や土塁などが整備され、現在は鉢形城公園になっている。
鉢形城跡は発掘調査に基づ四脚門などが平成十六年に復元整備され、
随所に設置されている案内板により発掘調査や当時の姿の推定などを知ることができる。
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田山花袋碑 | | 二の曲輪、三の曲輪間の堀切 | | 三の曲輪(石垣土塁、四阿、池) |
鉢形城の詳細は、
古城めぐり「鉢形城」を、ご覧ください。
所在地:埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
JR八高線、秩父鉄道、東武東上線の寄居駅下車、徒歩では約25分
バスでは寄居駅よりイーグルバス(元東秩父村営バス)「和紙の里」行きで「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分
鉢形城歴史館(埼玉県寄居町鉢形2496-2 048-586-0315 9時30分〜16時30分、休日は月曜日、祝日の翌日、年末年始)
鉢形城のスタンプは駐車場正面入口の郵便ポストにある
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