日本100名城 (16) 箕輪城(みのわじょう)






箕輪城は諸説あるが、戦国時代の初期の永正九年(1512)に高崎市の浜川地区を拠点にしていた長野氏の 長野業尚により築城され、その後、憲業、業政、業盛の四代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていた と考えられている。 

「 長野氏は業政の時代に全盛を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げた。  永禄元年(1558)、上杉憲政が越後へ亡命すると、西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の三巴の戦いの場となり、 その結果、長野方の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまう。  こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたと伝えられる。  永禄九年(1566)、難攻不落であった箕輪城は武田軍によりついに落城してしまう。 
落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われ、その間の城主は戦国大名の重臣で、 武田氏時代(1566〜1582)は内藤昌秀など、織田氏時代は一ヶ月弱だが滝川一益、 北条時代(1582〜1590)は北条氏邦などが城主を務めている。  天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、箕輪城は前田利家、上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。  そして、最後の徳川氏の時代、 小田原征伐の後の同年、徳川家康が関東に移封された際、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(十二万石)を 拝領し、箕輪城の城主になった。  井伊直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長三年(1598)に高崎(和田)に移城したことにより、 廃城となり、八十余年の歴史に終止符を打った。 」

箕輪城は東西約五百メートル、南北約千百メートル、面積約四十七ヘクタールにおよぶ広大なもので、 南に榛名沼、西には榛名白川があり、両者が天然の堀を形成した河岸段丘上の要害で、 梯郭式に曲輪が配された平山城である。 昭和六十二年(1987)に国の史跡に指定された。 
廃城に伴う移築などから当時の建物は全く残っていないが、大規模な堀や石垣などは残り、当時の様子を偲ばせている。 

本丸西側の堀
     郭馬出西虎口門      本丸跡
本丸西側の堀
郭馬出西虎口門
本丸跡



箕輪城は長野氏以降、城主が度々変っているが、発掘調査により、城主の交代による城の造り替えの状態が明らかになってきている。 
箕輪城の最大の特徴は大規模な堀で、 本丸周辺では最大幅三十メートル、深さ十メートルの空堀が巡り、 他にも、城の中心部を南北に分断する役割がある大堀切など、同時代の城としては全国的な規模の堀が城内の各所に残っている。 
大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門、鍛冶曲輪、三の丸、二の丸などには石垣が残っているが、 箕輪城の石垣はこのルート沿いに集中している。  なお、現在の堀や石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、 長野氏時代の城とはかなり異なっているようである。 
平成二十八年(2016)に大堀切の土橋の先に郭馬出西虎口門が復元された。 
発掘調査で、本丸西虎口や御前曲輪西虎口などから、井伊氏時代に使われて城門の礎石跡が発見され、 周囲には排水用の溝が巡らされていた。 
本丸は御前曲輪と一体となり四方を空掘に囲まれていた厳重な曲輪だったようである。 

鉢形城の詳細は、 古城めぐり「箕輪城」を、ご覧ください。

所在地:群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか 
JR信越本線・上越新幹線高崎駅から群馬バスで箕郷行きで、約30分、箕郷本町で下車、徒歩約20分 
箕輪城のスタンプは高崎市箕郷支所受付窓口、土日祭日は支所北側通用門にある 
なお、本丸にスタンプ済みの紙があるので、それで済ますこともできる 



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かうんたぁ。