日本100名城 (14) 水戸城
水戸城は北部を流れる那珂川と千波湖にはさまれた台地の先端に典型的な連郭式の縄張で築城された平山城である。
「 平安時代末期頃、常陸国大掾国香の子孫、馬場資幹(すけもと)が、この地(水戸一高)に館を築いた。
十五世紀のはじめ、応永二十三年(1416)、藤原氏の族、河和田城主、江戸通房が、馬場氏を追放し、代わって居城した。
それまでの本城の外に宿城(のちの二の丸、現在、茨城大学附属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張した。
天正十八年(1590)、佐竹義宣が入城して近世城郭に改修した。
佐竹氏が秋田へ移封後は徳川家康の十一男、徳川頼房が入城。
徳川家は城に大幅に手を加え、城下町を拡充し、徳川御三家の居城として、東北諸藩ににらみをきかせる存在とした。
本丸の西側に二の丸を配し、居館を構えたが、
天守は造らず、破風などの飾りのない三階櫓(内部は五階建て)を二の丸に建造し、
その西側に三の丸が配し、それぞれを空堀で仕切った。
水戸城の城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されたことや櫓や多聞(長屋)も極端に少なく、
塀を多用したのが水戸城の特色で、この質朴さが水戸徳川家の家風をよく表しているといわれる。 」
県道を跨ぐ大手橋の手前に「大手門跡」の説明板が立っている。
「 大手橋に接してここにあった二階造りの大手門は佐竹義宣が慶長六年(1601)に建てたものであったが、
徳川氏の代になっても水戸城の入口の門で、前に下乗の札、後に番所があった。
楼上では太鼓または鐘を打って知られたこともあったが、明治初年にとりこわされた。 」
水戸城は明治維新後、ほとんどの建物はとり壊され、解体を免れた三階櫓は国宝に指定されていたが、
第二次大戦の水戸空襲により焼失したので、城跡を示すものはこの周辺に残る土塁と濠跡のみである。
標高約三十二メートルのところにあった本丸が水戸第一高校、東二の丸が第一高校のグランド、
二の丸が水戸第三高校、第二中、茨城大付属小、三の丸が三の丸小というように、ほとんどが学校の敷地になっている。
水戸第二中の前に「大日本史編纂之地」と書かれた大きな石碑、その左下に「彰考館跡」の石碑がある。
「 水戸第二代藩主義公光圀は明暦三年(1657)に大日本史(412巻)の編集を始めた。
寛文十二年(1672)にその編集所を彰考館と名付けた。
最初は江戸小石川の藩邸内にあったが、元禄十一年(1698)に水戸城内に移した。
その場所は現在の第二中学の一角といわれ、明治四年(1871)の廃藩置県までの百七十二年間続いた。 」
本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり橋が掛けられていたが、
明治時代に、二の丸と三の丸の間の堀は、道路(県道232号市毛水戸線)として、
本丸と二の丸の間の堀は、鉄道(JR水郡線)として転用された。
三の丸には水戸藩藩校だった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)がある。
「 弘道館は第九代藩主徳川斉昭が創設した藩校で、
創設時には正庁、至善堂を中心として、文館、武館、医学館、天文台等が配置され、
梅林の中には鹿島神社、孔子廟、八卦堂、、学生警鐘(鐘楼)等があり、
藩士に文武両道の修練を積ませようと、武芸一般はもとより、
医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を採り入れた、いわば総合大学というべきものだった。
明治元年(1868)の弘道館戦争の際の兵火により、文館、武館、医学館等を失った。
その後、広大な敷地は県庁、三の丸小用地として割譲され、規模は縮小、
昭和二十年(1945)の戦災で残っていた鹿島神社、孔子廟、八卦堂が焼失したが、
正庁、至善堂、学生警鐘(鐘楼)は奇跡的に戦災から免れた。 」
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。
「 元治元年(1864)、天狗党が筑波山で挙兵する天狗党の乱が起る。
この対立は明治維新まで続き、戊辰戦争の明治元年(1868)、水戸城下で戦闘が行われ、
弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。 この際、城内の多くの建物が焼失したのである。 」
入口で観覧料を支払い入ると、国の重要文化財に指定されている本瓦葺き四脚門の正門があったが、
これはその際燃失を免れたものだが、城側から撃たれたと思われる弾痕の跡が残っている。
その先にある門をくぐるとその先にあるのが正庁、至善堂である。
「 正庁は弘道館の管理棟で、玄関の戸や板壁に弘道館戦争の傷跡が残っていた。
正庁の東北に位置する四室は至善堂と呼ばれ、藩主の控え室、その子弟の学習の場として使用されたという。 」
襖や壁には和歌の扇面を掲げたといわれるが、現在の襖には要石歌碑の碑文を記した掛け軸が掲げられていた。
学生警鐘(鐘楼)は弘道館内の時刻を知らせるためので、
背面には斉昭の「 物学ぶ 人の為にも清かにも 暁告げる 鐘のこえかな 」 の自筆があるという。
学生警鐘(鐘楼)は昭和二十年(1945)の戦災を免れたが、現在鐘のコピーが作られ、弘道館内に展示されている。
なお、慶応三年(1867)の大政奉還の後、徳川慶喜は江戸から至善堂に移り、謹慎したとある。
敷地には約六十種八百本の梅が植えられており、偕楽園とともに梅の名所となっている。
三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしていた。
「 現在梅の名所として名高い偕楽園は、
水戸徳川九代藩主徳川斉昭が天保十三年(1842)に領民と楽しむために梅を植えてつくらせた庭園である。
偕楽園の名称は中国の古典「孟子」にある 「 古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり 」
という一節からとったもので、
「偕楽園記」では 「 是れ余(斉昭)が衆と楽しみと同じくするなりの意なり 」 と述べている。
園内にある好文亭(こうぶんてい)は、徳川斉昭自らが設計したもので、
木造二層三階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成り、各所に創意工夫と洒脱さを感じさせる建物である。
現在の建物は昭和になって復元されたものであるが、
斉昭はここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催したといわれる。
自ら考案したとされる一階と二階に手動のエレベーター(食事を運ぶ装置)が設けられていて、
斉昭は科学者や発明家の才があったのだろうと感じた。
二階からの展望はすばらしく、眼下の梅林はもちろん冬には白鳥が飛来する千波池が目の前に見える。
所在地:茨城県水戸市三の丸
JR常磐線水戸駅から徒歩約8分
水戸城のスタンプは弘道館(水戸市三の丸1−6−29)料金所入口にて
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