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戊辰戦争でダメージを受け、明治に取り壊された天守は昭和四十年(1965)に、
鉄琴コンクリート造で、再建された。
「 天守は外観復興復元されたもので、
内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。
平成二十三年(2010)に天守の屋根瓦が黒瓦から解体以前の赤瓦に復元された。
天守棟上の鯱は全身銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれている。
天守には地下の倉庫(塩蔵)から入るが、下に降りる両側の天守台の石垣は氏郷の時代の野面積みで、
巨大な石が入口の上にまたがっている。 中に入った地下一階の塩蔵の石垣は、
加藤時代に積み直されたもので、打込み接ぎである。
天守に繋がる走長屋(多聞櫓)に売店があり、レジ横に100名城のスタンプが置かれている。 」
大手口である北出丸の虎口は、出丸、主郭帯郭、櫓、隣接する西出丸からの射撃が集中し、 その防御の堅さから「皆殺し丸」の別名がある。
「 北出丸と西出丸は、主郭が位置する台地上にあり、 出丸を突破しようとする敵を、高低差を利用して攻撃できるようになっていた。 北出丸は、直方体の石で虎口を形成し、東は伏兵櫓、南は本丸帯郭、 西は西出丸で囲まれた場所である。 」
東側の二の丸と本丸の間に、当時は城内唯一の木橋(廊下橋)があった。
本丸東側の石垣は二十メートルにおよぶ高石垣で、打込接の美しいものである。
「 二の丸も馬出し状の郭であるが、高低差を利用できないため、 堀切を水堀まで堀下げて、約二十メートルの高石垣とし、 橋は廊下橋とすることで、防御していた。 二の丸跡は現在、テニスコートになっている。 」
出丸を持たない本丸南側は、堀と湯川により、三重に防御されていた。
本丸跡は芝生公園になっていて、かっては本丸御殿が建っていた。
茶壺櫓跡の下には茶室「鱗閣」があり、下見板張りの土塁に囲まれた立派な山門を持つ。
「 平成二年(1990)に茶室「鱗閣」が本丸の元の位置に移築復元された。
天正十九年(1591)、千利休が豊臣秀吉により、切腹を命じられたが、
千利休の茶道が途絶えることを危惧した蒲生氏郷が、利休の子、少庵を会津に匿い、
秀吉に千家再興を願い出た。
この結果、少庵は京都に戻り、千家茶道は小庵の子、宗旦に引き継がれ、
その孫により武者小路家、表千家、裏千家の三千家が興され、現在に伝えられている。
この鱗閣は、少庵が会津に匿われていた時、氏郷のために造ったと伝えられているものである。 」
茶室「鱗閣」の左側に三階建ての櫓「御三階」が建っていたが、
今は阿弥陀寺の本堂として移築され、礎石のみが残る。
平成十三年(2001)、天守に続く走長屋(多聞櫓)の左側に、南走長屋と干飯櫓が木造で復元された。
「 南走長屋は、長い廊下と小部屋が続く。 走長屋から階段で二階建ての干飯櫓へ入る。 ニ階部分は立ち入り禁止。 石落し、鉄砲狭間があり、戦闘の様子を人形により再現している。 干飯櫓は文字通り、食料保存庫である。 」
本丸の西側にある天守に繋がる走長屋と、南走長屋と干飯櫓を繋ぐのが鉄門である。
「 鉄門は加藤時代の切り込み接ぎで、
天守台と長屋(続櫓)につながっている。
戊辰戦争で籠城中は松平容保の指揮所となった。
平成十三年(2001)に南走長屋と干飯櫓と一緒に復元された。 」
所在地:福島県会津若松市追手町1−1
JR磐越西線会津若松駅から会津バス「鶴ヶ城まわり」で約15分、鶴ヶ城北口下車、徒歩約3分
100名城のスタンプは天守閣売店(8時30分〜17時、受付は16時30分まで)にある。