日本100名城 (12) 会津若松城








会津若松城は本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置された梯郭式の平山城である。 
地元では若松城(わかまつじょう)、あるいは、鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれているが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。 
「国の史跡」は若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。 

「 若松城のはじまりは、南北朝時代の1384年(南朝元中元年・北朝至徳元年)、 葦名氏七代目直盛が東黒川館を造ったのが起源とされる。 
以後、代々葦名氏の城であった。  戦国時代の中後期には葦名氏中興の祖・葦名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。  天正十七年(1589)、伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視し、葦名義広を攻め、葦名氏を滅ぼし、 黒川城を手にしたが、翌十八年(1590)、政宗は秀吉により会津を召し揚げられた。 
代わりに黒川城へ入ったのは蒲生氏郷で、文禄元年(1592)より、 大名に相応しい近世城郭への改造を始め、町の名を黒川から若松へ改めた。  文禄二年(1593)、望楼型七重の天守が竣工し、名は鶴ヶ城に改められた。 
慶長三年(1598)、氏郷の子、秀行は転封になり、 上杉景勝が百二十万石で入国したが、徳川家康により、 慶長五年(1600)に三十万石に減封の上、出羽国米沢へ移封となった。  翌六年(1601)、再び、蒲生秀行が入城したが、嫡男の忠郷に嫡子が無く、亡くなったため、 秀行の次男、忠知が後嗣となり、伊予松山に移封された。 
代わって、加藤嘉明が入封、子の明成が西出丸・北出丸などの造築を行い、 慶長十六年(1611)に起きた会津地震により倒壊した天守を、 現在見られる層塔型の五重天守に造り変えるなど、大規模な改修が行われ、東北地方屈指の名城といわれた。 
慶長二十年(1643)、加藤明成は改易され、徳川家光の庶弟である保科正之が二十三万石で入封し、 以後、明治維新まで会津松平氏の居城になった。 
幕末の戊辰戦争で、会津藩は新政府軍と戦った時、一ヶ月間の籠城に耐え、 城の堅牢ぶりを見せつけた。 
戦いで傷んだ会津城は明治政府の管理となり、明治七年(1874)末までに、 天守をはじめとする建造物はすべて解体された。 
なお、本丸にあった三階櫓はそれ以前に市内の寺院の本堂として移築されたので、 唯一残る遺産である。 
明治四十一年(1908)、三の丸の東側と城外に陸軍の練兵場が設置され、 三の丸の一部とその濠や土塁が撤去されたが、本丸、二の丸、北出丸、西出丸と三の丸の一部、 及び、附属する濠は残された。 


若松城
(左)干飯櫓・南走長屋・走長屋・天守




戊辰戦争でダメージを受け、明治に取り壊された天守は昭和四十年(1965)に、 鉄琴コンクリート造で、再建された。 

「 天守は外観復興復元されたもので、 内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。  平成二十三年(2010)に天守の屋根瓦が黒瓦から解体以前の赤瓦に復元された。  天守棟上の鯱は全身銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれている。 
天守には地下の倉庫(塩蔵)から入るが、下に降りる両側の天守台の石垣は氏郷の時代の野面積みで、 巨大な石が入口の上にまたがっている。 中に入った地下一階の塩蔵の石垣は、 加藤時代に積み直されたもので、打込み接ぎである。 
天守に繋がる走長屋(多聞櫓)に売店があり、レジ横に100名城のスタンプが置かれている。 」

大手口である北出丸の虎口は、出丸、主郭帯郭、櫓、隣接する西出丸からの射撃が集中し、 その防御の堅さから「皆殺し丸」の別名がある。 

「 北出丸と西出丸は、主郭が位置する台地上にあり、 出丸を突破しようとする敵を、高低差を利用して攻撃できるようになっていた。  北出丸は、直方体の石で虎口を形成し、東は伏兵櫓、南は本丸帯郭、 西は西出丸で囲まれた場所である。 」

東側の二の丸と本丸の間に、当時は城内唯一の木橋(廊下橋)があった。 
本丸東側の石垣は二十メートルにおよぶ高石垣で、打込接の美しいものである。 

「 二の丸も馬出し状の郭であるが、高低差を利用できないため、 堀切を水堀まで堀下げて、約二十メートルの高石垣とし、 橋は廊下橋とすることで、防御していた。  二の丸跡は現在、テニスコートになっている。 」

出丸を持たない本丸南側は、堀と湯川により、三重に防御されていた。 

天守
     北出丸虎口      廊下橋と本丸石垣
天守
北出丸虎口
廊下橋と本丸石垣



本丸跡は芝生公園になっていて、かっては本丸御殿が建っていた。 
茶壺櫓跡の下には茶室「鱗閣」があり、下見板張りの土塁に囲まれた立派な山門を持つ。

「 平成二年(1990)に茶室「鱗閣」が本丸の元の位置に移築復元された。 
天正十九年(1591)、千利休が豊臣秀吉により、切腹を命じられたが、 千利休の茶道が途絶えることを危惧した蒲生氏郷が、利休の子、少庵を会津に匿い、 秀吉に千家再興を願い出た。  この結果、少庵は京都に戻り、千家茶道は小庵の子、宗旦に引き継がれ、 その孫により武者小路家、表千家、裏千家の三千家が興され、現在に伝えられている。 
この鱗閣は、少庵が会津に匿われていた時、氏郷のために造ったと伝えられているものである。 」

茶室「鱗閣」の左側に三階建ての櫓「御三階」が建っていたが、 今は阿弥陀寺の本堂として移築され、礎石のみが残る。 
平成十三年(2001)、天守に続く走長屋(多聞櫓)の左側に、南走長屋と干飯櫓が木造で復元された。 

「 南走長屋は、長い廊下と小部屋が続く。  走長屋から階段で二階建ての干飯櫓へ入る。   ニ階部分は立ち入り禁止。 石落し、鉄砲狭間があり、戦闘の様子を人形により再現している。  干飯櫓は文字通り、食料保存庫である。 」

本丸の西側にある天守に繋がる走長屋と、南走長屋と干飯櫓を繋ぐのが鉄門である。 

「 鉄門は加藤時代の切り込み接ぎで、 天守台と長屋(続櫓)につながっている。  戊辰戦争で籠城中は松平容保の指揮所となった。  平成十三年(2001)に南走長屋と干飯櫓と一緒に復元された。 」

茶室「鱗閣」
     南走長屋と干飯櫓      
鉄門
茶室「鱗閣」山門
ニ階建ての干飯櫓と南走長屋
鉄門



所在地:福島県会津若松市追手町1−1  
JR磐越西線会津若松駅から会津バス「鶴ヶ城まわり」で約15分、鶴ヶ城北口下車、徒歩約3分  
100名城のスタンプは天守閣売店(8時30分〜17時、受付は16時30分まで)にある。 



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かうんたぁ。