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本丸の西方に搦手門跡がある。 二本松城の裏門で、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残る。
畠山氏あるいは蒲生氏時代の掘立柱による冠木門の柱穴も発掘調査で発見された、という。
日影の井戸は、千葉県印西市の月影の井戸と鎌倉市の星影の井戸と共に、日本の三井といわれる。
石積みで、深さ14m余り、底から北方に12m余り横堀りされている、という。
「 寛永二十年(1643)に入封した丹羽光重は、三の丸御殿、箕輪門を造り、城下町を整備した。
三の丸跡の左手にあるるり池、霞池、その先の小高いところにある茶亭、洗心亭も丹羽光重が造らせたものである。
るり池は光重公時代の造園の姿を今に残す。 小規模な回遊式庭園ながら、自然との調和に一体感をかもし出している。 」
洗心亭は城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き、寄棟平屋造りの茶亭、当時は墨絵の御茶屋といい、
光重公がこよなく愛した。 上方にある洗心滝に感じいった丹羽家16代当主が現在の名前に変更したという。
一時城外に移築されていたことにより、戦火を逃れ、明治四拾年(1907)に再移築された。
るり池の北西にある霞ヶ城の傘マツは別称「八千代の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢350年を越す。
1本の幹から三方い枝を伸ばした独特の形状が見事である。
箕輪門は初代藩主丹羽光重公の入府まもなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓門である。
「 主柱材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたことから、この名がある。 戊辰戦争で焼失したが、昭和五十七年(1982)、箕輪門は二階櫓と多聞櫓と共に、三の丸跡に再建された。 」
城山第一駐車場の左に「二本松少年隊群像」がある。
「 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦ったが、慶応四年(1868)七月二十九日、
藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か一日の戦闘において落城し、
建物はすべて焼き払われた。
戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿を彫刻家
橋本堅太郎氏がブロンズ制作、平成八年建立である。 」
本丸の南西下に少年隊の丘があり、橋本堅太郎氏の父、橋本高昇氏によるブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や
顕彰碑「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」などが建っている。
また、そこから少し下がったところに、智恵子抄詩碑が建っている。
智恵子抄は、高村光太郎の詩集で、妻の智恵子は二本松の出である。
城の入口には、昭和十年(1935)、「旧二本松藩戒石銘碑」 として、国の史跡に指定された「 戒石銘碑 」 がある。
「 二本松藩七代藩主、丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、
一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた、というものである。 」
所在地:福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
JR東北本線二本松駅から徒歩約20分で内城入口、入口から本丸まで坂道で徒歩約15分
日本100名城の二本松城のスタンプは二本松駅内にある観光案内所か、
駅から城に向う途中にある二本松市歴史資料館(二本松市本町1−102 0243−23−3910 9時〜17時 月休)の受付で、
城にはスタンプは置かれていない