日本100名城 (11) 二本松城(にほんまつじょう)






二本松城は、蒲生氏が嘉吉年間に築いた山城を加藤義明が寛永4年(1627)に近世城郭に大改修した城である。 
戊辰戦争で奥州越列藩同盟に加わり、焼失してしまった。 別名、霞ヶ城、白旗城と呼ばれる。 

「 二本松城は福島県二本松市郭内にあった城で、 標高三百四十五メートルの白旗が峰に畠山(二本松)満泰が嘉吉年間(1441〜1443)に築いた山城が始まり。  本丸と平地の比高は約百二十メートルの山の頂上に本丸が置かれ、そこから東、南に伸びる尾根に曲輪が築かれていた。  他の山につながる北西の尾根は堀切を設けそれで遮断し、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ形となっていた。 
しかし、畠山(二本松)氏は戦国時代に伊達政宗の攻撃を受け、滅亡した。 
政宗は片倉景綱、次で伊達成実を二本松城代としたが、天正十九年(1591)の秀吉による奥州仕置で、、 政宗は岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城主、蒲生氏郷の支城となった。 
氏郷が入ると城域は拡大され、本丸直下に穴太積みによる大石垣を用いるなど、 織豊城郭式の城に変貌し。城下町も整備された。 
寛永四年(1627)に入った加藤嘉明は山麓部分の高石垣が築き、現在の近世城郭の姿に大改修された。 
寛永二十年(1643)に丹羽長秀の孫、丹羽光重が十万七百石で入封すると、 二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行い、 この際、本丸に石垣が積まれ、三つの櫓台が築かれた。 
丹羽光重は城を大改修した際、奥州街道を付け替えて直接城下を通らないようにし、 城の南に東西につながる観音丘陵を城域に取り込み、 城と丘陵で囲まれた地域は武家地となり、丘陵には切通しが開かれた。  このときの城域は郭内という地名に残っている。 」

本丸南下大石垣は、蒲生氏郷の時代に野面積みで築かれた。 
本丸南石垣は丹羽氏時代の打込接(うちこみはぎ)で、築かれている。 ここでは二つの異なる石垣を見ることができる。 
本丸へ入ると、奥に天守台がある。  平成五年(1993)から平成七年(1995)にかけ、本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備されたが、 天守が建てられたという記録はないという。 
天守台へ上がる石段の脇に、石碑が建っている。 
戊辰戦争の際、主戦論の実力者家老、丹羽一学と副役の服部久左衛門と丹羽新十郎が、 藩主長国に代わって、戦犯の責任をとり、切腹した。 この石碑は「三人の自刃の地」として建っている。 

本丸南下大石垣
     本丸南石垣      本丸跡
氏郷による本丸南下大石垣
本丸南石垣
本丸跡奥に見えるのは天守台



本丸の西方に搦手門跡がある。 二本松城の裏門で、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残る。 
畠山氏あるいは蒲生氏時代の掘立柱による冠木門の柱穴も発掘調査で発見された、という。 
日影の井戸は、千葉県印西市の月影の井戸と鎌倉市の星影の井戸と共に、日本の三井といわれる。 
石積みで、深さ14m余り、底から北方に12m余り横堀りされている、という。

「 寛永二十年(1643)に入封した丹羽光重は、三の丸御殿、箕輪門を造り、城下町を整備した。 
三の丸跡の左手にあるるり池、霞池、その先の小高いところにある茶亭、洗心亭も丹羽光重が造らせたものである。  るり池は光重公時代の造園の姿を今に残す。 小規模な回遊式庭園ながら、自然との調和に一体感をかもし出している。 」

洗心亭は城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き、寄棟平屋造りの茶亭、当時は墨絵の御茶屋といい、 光重公がこよなく愛した。 上方にある洗心滝に感じいった丹羽家16代当主が現在の名前に変更したという。 
一時城外に移築されていたことにより、戦火を逃れ、明治四拾年(1907)に再移築された。 
るり池の北西にある霞ヶ城の傘マツは別称「八千代の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢350年を越す。  1本の幹から三方い枝を伸ばした独特の形状が見事である。 

搦手門跡
     日影の井戸      洗心亭
搦手門跡
日影の井戸
洗心亭



箕輪門は初代藩主丹羽光重公の入府まもなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓門である。

「 主柱材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたことから、この名がある。  戊辰戦争で焼失したが、昭和五十七年(1982)、箕輪門は二階櫓と多聞櫓と共に、三の丸跡に再建された。 」

城山第一駐車場の左に「二本松少年隊群像」がある。

「 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦ったが、慶応四年(1868)七月二十九日、 藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か一日の戦闘において落城し、 建物はすべて焼き払われた。 
戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿を彫刻家 橋本堅太郎氏がブロンズ制作、平成八年建立である。 」

本丸の南西下に少年隊の丘があり、橋本堅太郎氏の父、橋本高昇氏によるブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や 顕彰碑「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」などが建っている。 
また、そこから少し下がったところに、智恵子抄詩碑が建っている。  智恵子抄は、高村光太郎の詩集で、妻の智恵子は二本松の出である。 
城の入口には、昭和十年(1935)、「旧二本松藩戒石銘碑」 として、国の史跡に指定された「 戒石銘碑 」 がある。

「 二本松藩七代藩主、丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、 一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた、というものである。 」
 

箕輪門
     二本松少年隊群像      戒石銘碑
二階櫓・箕輪門・多聞櫓
二本松少年隊群像
戒石銘碑



所在地:福島県二本松市郭内3丁目・4丁目  
JR東北本線二本松駅から徒歩約20分で内城入口、入口から本丸まで坂道で徒歩約15分  
日本100名城の二本松城のスタンプは二本松駅内にある観光案内所か、 駅から城に向う途中にある二本松市歴史資料館(二本松市本町1−102 0243−23−3910 9時〜17時 月休)の受付で、 城にはスタンプは置かれていない 




 戻る(日本100名城表紙)




かうんたぁ。