日本100名城 (10) 山形城
山形城は山形市霞城町にあった平城で、霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる城である。
戦国大名最上義光が拡張整備した城である。
「 山形は、山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置し、
羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、最上郡の中心として栄えていたので、
鎌倉時代、最上氏の祖、斯波兼頼(しばかねより)は延文二年(1357)、山形城を創築した。
戦国時代末期の文禄元年(1592)、斯波氏の後裔、最上義光(もがみよしあき)は、
十数基の櫓をそなえた大規模な平城に城郭を拡大し、城下町を整備して、出羽五十七万石の本城となった。
本丸には天守はなく御殿のみで、防衛の中心は一辺五百メートルほどの方形の二の丸におかれ、
中世の居館を拡張して城郭とし、藩の政庁と御三階櫓が建てられ、五つの出入り門が作られた。
三の丸は一・五キロから二キロほどの楕円形で、五百三十四人の上級、中級の最上家家臣の屋敷が建てられ、
十一の出入り門が作られた。
元和八年(1622)、最上氏が転封されると、鳥居忠政が入封し、大幅な改築を行い、現在の形に整えられた。 」
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が同心円状に配置された輪郭式平城である。
JR山形駅西口から北に十分程歩いて行くと、二の丸の水掘があり、中央部に橋が架かっている。
堀の向う側には二の丸石垣があるが、石垣は門の周囲だけで、あとは土塁にである。
橋を渡ると左右に巨大な石垣があり、道は左に曲がる。
右側石垣の前に「南大手門跡」の標柱があるが、石垣は表面をたたいて整え、隙間も埋めた打込みハギで造られていた。
往時はその先に巨大な楼門が建ち、行く手を遮る二の丸枡形虎口であった。
その先は、右側に県体育館、武道館、左側は桜の園という芝生広場になっている。
「 二の丸は東西約三百九十六メートル、南北約四百二十七メートル、約五万千八百坪の広さで、
御殿が置かれ、山形藩の政治の中心になっていたというが、現在は北門や西門に石垣が残るだけで、
西門の北はソフトボール城、北側は児童文化センター、野球場、弓道場、駐車場になっていて、
これといった遺跡は残っていない。 」
体育館の先の囲いで覆われている所は本丸跡で、一部開いているところがあるので、
覗いて見ると「本丸御殿広場発掘調査中」とある。
「 本丸は東西約百五十メートル、南北約百六十メートル、約七千坪の大きさで、
天守はなく二重櫓が三基、そして本丸御殿が建っていた。
山形城には山形藩の政庁が置かれたが、鳥居氏以後、たびたび、藩主の変更があり、
山形藩を治める藩主の石高が減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になったため、
本丸は幕末には更地になっていたようで、本丸の堀とともに明治に陸軍によって埋められてしまった。 」
現在埋め立てられた御殿跡を発掘調査しているようすである。
最近になり、本丸の南と東部分の本丸堀と土塁が復元されたが、本丸堀は水堀ではなく空堀である。
本丸跡南の空堀に沿って右に行くと、「崩れた石垣」と書かれた説明板がある。
「 本丸堀を発掘した際、本丸一文字門西側櫓台石垣前の堀跡から石垣石材が大量に発見された。
江戸時代後期の絵図で、櫓台石垣の一部に「御櫓崩」の表記があることから、その崩落に由来する石材と考えられる。
また、石材の周囲から極めて大量の瓦が出土された。
石垣の崩落という歴史的事実を後世に伝える目的で現況表示にしている。 」
その先の左側にあるのは大手橋と高麗門(本丸一文字門)である。
「 江戸時代、本丸への出入口は大手口の一文字門と搦手口の北不明門の二つがあった。
本丸の大手の大手橋を渡ると高麗門があり、そこをくぐると大手門枡形で、右折すると楼門があり、
高麗門と枡形櫓台と一文字櫓門で大手一文字外枡形虎口を形成していた。
明治時代に陸軍の師団が設置され、本丸御殿の土地と本丸の堀や一文字大手門らは埋められてしまったが、
平成十八年(2006)に本丸一文字石垣と大手橋が復元され、
また、平成二十五年(2013)には本丸大手門枡形内の高麗門と土塀が復元された。 」
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復元された本丸堀南部分 | | 御櫓崩の石材 | | 大手橋と一文字門高麗門 |
右(東)に入っていくと、市郷土館の看板があり、その奥に変わった形をした建物が建っているが、旧済生館本館である。
明治十一年に建てられた病院跡で、市内から移築されたものである。
近代化産業遺産として国の重要文化財に指定されていて、 日本100名城のスタンプはここでもらえる。
大手橋まで戻り、北に向うと東大手門広場に最上義光(もがみよしあき)の騎馬像が建っていた。
「 最上義光は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名で、
最上氏第十一代当主で、出羽山形藩の初代藩主である。
伊達政宗の伯父にあたり、関ヶ原の戦いにおいては東軍につき、
最上家を五十七万石の大大名に成長させて、全盛期を築き上げた人物である。 」
右手にある石垣と楼門は東大手門である。
「 二の丸東大手門は高麗門、楼門、続櫓などからなる門で、その規模は江戸城の城門に匹敵したが、
明治時代に壊されものを平成三年(1991)に修復、復元された。 」
所在地:山形市霞城町3ほか
JR奥羽本線・山形新幹線山形駅下車、西口から東門まで徒歩約8分、東口から東大手口まで徒歩約12分
日本100名城のスタンプを二の丸東大手門楼門(9時〜17時 月休)か、市郷土館にて
でもらう予定で来たが、
本丸跡、一文字高麗門、東大手門楼門の開館は4月6日〜11月4日まで
11月5日〜4月5日は冬期閉鎖となっていたため、注意すること
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