日本100名城 (9) 久保田城(くぼたじょう)






久保田城は羽後国秋田郡久保田にあった秋田二十万石、秋田藩主佐竹氏の居城で、 矢留城、葛根城とも呼ばれた平山城である。  現在、千秋公園になっている本丸は、南西隅の御出書院櫓台をはじめ、 土塁の残りもよく、東日本の土造の城の姿を見ることができる。 

「 関ヶ原の戦い後、常陸国から出羽秋田に転封を命じられた佐竹義宣(さたけよしのぶ)は慶長七年に入部し、 慶長八年(1603)に雄物川の支流である旭川の左岸にある標高四十メートルの神明山に築城を開始し、 翌、慶長九年(1604)、 完成し、久保田城と命名した。 
佐竹氏は改易されることもなく幕末まで存続したが、 本丸は明治十三年(1880)七月の大火で、全焼。  また、市街調整の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に官庁街へと変貌した。  久保田城の本丸と二の丸一帯は明治二十三年、公園となり、現在千秋公園として開放されている。  三の丸には秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、 秋田県立脳血管研究センターなどが建てられていて、城の遺跡は極めて少ない。 」

秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。 
かっては二の丸を囲んでいた水掘が残る唐金橋跡、黒門跡を通ると二の丸跡に出る。 
二の丸の今は公衆トイレと売店だけで、後は広い緑地と遊歩道になっている。 

「二の丸跡」の標柱
「 本丸に次ぐ城の要衝地であり、 城内に入城する道は内掘を渡って二の丸に集まった。  勘定所、境目方役所、安楽院(祈祷所)、時鐘、金蔵、厩などがおかれ、 特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、 能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。 」

売店の南東に佐竹資料館があり、佐竹資料館の手前の右側に「安楽院・勘定所・境目方役所跡」の標柱が立っている。 
佐竹資料館では、秋田藩主佐竹氏関連の資料の展示や秋田の藩政時代を紹介している。

「 久保田城は天守閣と石垣のない城として知られている。  石垣がほとんど用いられていないのは佐竹氏が石垣普請に精通せず、 かわりに土塁普請を得意としていたためで、鉢巻土手といわれる石垣は、基底部に僅かにあるのみで、 その上に土塁を盛られる工法で築かれている。 また、山川沼沢を巧みに利用して防御を図っており、水堀や円郭式城郭など、西国の様式も採り入れられている。 
清和源氏の流れを汲む由緒ある大名の城としては質素なつくりで、天守も持たず、 土塁の上に、「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に八棟の櫓を建て並べていた。  」

佐竹資料館で100名城のスタンプを押した。 
資料館を出て、売店の脇の石段を上る。 ここは長坂である。 

二の丸跡
     (奥)佐竹資料館と標柱      長坂
二の丸跡
(奥)佐竹資料館と標柱
長坂



長坂は途中で右に曲がり、更に左に曲がるがそこに「御長坂門跡」の標柱が立っている。 
二の丸から本丸に入る二の丸門である。

「 久保田城は基本的には土造の城だったが、重要な部分の土塁下部には石段が使用された。  長坂門口の石段で確認ができる。 」

そこを過ぎると右に曲がる枡形になっている。 
右折すると石段があり、石段の上ノ左側には表門が見える。

「 表門は久保田城本丸の正門で、一の門とも呼ばれた。  本丸の玄関口として警備上からも重要な地点に位置する。  久保田城は慶長九年(1604)に完成したが、表門は元和八年(1622)に最初の建て替えが行われている。  その後、寛永十年(1633)、安永七年(1778)など何度か火災に見舞われている。 」

御長坂門(二の丸門)跡      枡形      (左奥)表門(本丸正門)
御長坂門(二の丸門)跡
枡形
(左奥)表門(本丸正門)



現在の表門は絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したものである。 

「 構造は木造二階建て瓦葺き櫓門で、佐竹二十万石にふさわしい壮大なものとなっている。 
表門の左手には門の警備と管理をする「御番頭局(おばんがしらへや)」があり、 門の右手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。  御物頭御番所は久保田城内の二の門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、 火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所で、久保田城内に唯一残る藩政時代の建物である。  昭和六十三年に保存修理が行われ、往時の姿を今に伝えている。 」

表門をくぐると正面がお白州跡で、久保田城本丸跡の説明板が立っている。 

説明板「久保田城本丸跡」  
「 久保田城が築かれた神明山は三つの高地からなる標高約四〇メートル程の起伏のある台地で、 別名三森山とも呼ばれていた。 築城は慶長八年(1603)五月から着工され、翌九年八月に完成した。  本丸は最も高い所を削平や土盛をし、平にして造られた。  東西六十五間(約117m)、南北一二〇間(約215m)のほぼ長方形を呈し、 周囲には高さ四〜六間半(約7.3m)の土塁を構築している。 
本丸の建造物には表門から入った正面に玄関が置かれ、 政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。  また、土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、 北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。  西南隅の土塁上には御座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。  出入口は周囲に表門(一の門)、裏門、埋門(うずみもん)、帯曲輪門の四門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。 」

表門      御物頭御番所      本丸跡
復元された表門
御物頭御番所
本丸跡



その先に「本丸跡」の標柱が立っていて、その奥に久保田城の最後の城主、佐竹義堯の銅像が立っていた。

「 佐竹氏は清和天皇の子の貞純親王を祖とし、河内源氏の頼義の子、義光から三代、 昌義が佐竹氏の初代という清和源氏という由緒ある一族である。  第十二代藩主、佐竹義堯(文政八年〜明治十七年)は近代秋田を開いた最後の藩主である。  戊辰戦争では新政府方に属して戦った。 」

その左手に入ると八幡秋田神社が祀られている。 

「 八幡秋田神社は初代佐竹義宣公を始め、歴代の藩主を祀る。  社殿は秋田県の有形重要文化財であったが、平成十七年に放火により焼失、平成二十年に再建された。 」

秋田神社の奥には与太郎稲荷神社がある。 
秋田神社の左奥(南西隅)には御出書院櫓台跡(霊泉台)の標示がある。 
埋門跡は佐竹氏の銅像の先の広場を越えた先の突き当たりにあった。 

佐竹義堯の銅像      八幡秋田神社      埋門跡
佐竹義堯の銅像
八幡秋田神社
埋門跡



埋門跡を右折すると「←アヤメ園」の道標と「多聞長屋跡」の標柱が立っている。 下を見るとアヤメ池が見えた。 
多聞長屋(多聞櫓)は土塁に沿って建てられていた、と思われる。 
その先は左右が狭くなっていて、築城前は別々の山になっていたのを繋いだのかと思った。 
その先の左奥に御隅櫓が見えた。

「 御隅櫓は久保田城の八つの隅櫓の一つで、本丸の北西隅に位置していた。  御隅櫓は物見と武器庫の役割を担っていた建物で、市制百周年事業として 平成元年に、史料に記されている二階造りを基本とし、 その上に展望室を加えて三重四階のコンクリート造で建設されたもので、 内部には佐竹氏の歴史を解説し、パネル展示を行っている。  」

多聞長屋跡      御隅櫓の道      御隅櫓
多聞長屋跡
御隅櫓の道
御隅櫓



御隅櫓から土塁に沿って進む。 現在も各曲輪の周囲の土塁がよく残っている。 
その先が土門跡で、左折し、階段を下りると「帯曲輪門跡」の標柱が立っていた。 
帯曲輪門跡を進むと佐竹氏の銅像のあった築山の裏に出て、 「奥庭跡」の表示があり、右手に東屋が建っている。 
そちらには行かずに左に進むと裏門跡に出る。 

「 裏門は夜間の出入りの際に使用された重層門で、二度の大火で消失し、そのつど再建され、 明治十三年の本丸の大火では焼け残ったが、楼門から平屋へと改造されて、 市内の鱗勝院(旭北栄町)へ移築され、山門になったと伝えられている。 」

多聞長屋跡      土塁      裏門跡
土塁
帯曲輪門跡
裏門跡



裏門跡の階段を下りると左側に胡月池がある。

「 胡月池は公園を設計した長岡安平が最初に築造して池で、雪見灯籠や噴水が趣きを添え、 夏には二千年の眠りから覚めた大賀ハスが咲く。 
その奥には不浄門跡や厩跡、彌高神社、馬場跡と金蔵跡がある。 」

胡月池の先は二の丸跡で、右に御物頭御番所のある台地を見ながら進むと「鯉茶屋」と書かれた建物前に出た。 
これで久保田城の見学は終了である。

胡月池      鯉茶屋      二の丸跡
胡月池
鯉茶屋
二の丸跡




所在地:秋田市千秋公園1−39  
JR奥羽本線・秋田新幹線秋田駅から徒歩約10分  
日本100名城の久保田城のスタンプは秋田市立佐竹資料館(9時〜16時30分12/29-1/3休)にて 



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かうんたぁ。