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下図は仙台城の鳥瞰図である。
この図を見ると、仙台城は四方が広瀬川の渓谷や断崖などに囲まれた天然の要害であったことが分かる。
「 世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、二代藩主忠宗は寛永十四年(1637)、
麓に二の丸造営に着手し、翌年二の丸御殿が完成させ、その後の伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。
これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られ、これ以降、仙台城は平山城となった。 」
本丸跡の一角に、初代藩主政宗が築いた石垣と十七世紀後半、四代藩主綱村が築いた石垣の一部が再現され、
並べて展示されている。
仙台城と張り切ってきたが、本丸と東丸には石垣以外遺跡は残っていなかった。
眼下の眺めに少し時間をとった。
「 広瀬川がUの字のように蛇行して流れているが、左下のUの字の中にあるのは花壇自動車大学校である。
その先に霊屋(おたまや)という地名があり、瑞鳳殿がある。
政宗は生前に経ヶ峰の頂きを墓所と定めたとされ、政宗の霊廟所である瑞鳳殿は桃山風の建物だが、
戦災で焼けたので、現在の建物は再建されたもの。
近くに感仙殿(二代藩主忠宗霊廟所)、善応殿(三代藩主綱宗霊廟所)がある。
以前仙台城を訪れた妻と娘は寄ったが、小生は時間がなく、割愛した。 」
右側に北高石垣がある。
説明板
「 平成になり、本丸跡の調査が行われ、北部の高石垣が修復されたが、
最も高い部分は十七メートルである。 」
先程バス停前に戻ると、車道の下り坂に平行して高石垣が続いている。 これは先程上から見た北石垣の端である。
車道を下ると右側に「沢門跡」の説明板があり、
「 仙台城には複数の門や曲輪があったが、沢門は沢曲輪と中曲輪の間にあった門で、平屋建てで屋根は切妻瓦葺きだった。 」 と書かれていた。
右に入る小路に入り、沢門跡を写した。
道は左にそして右にカーブしながら、下っていく。
右側に石垣がありその下に「清水門跡」の説明板がある。
「 清水門は三の丸と沢の丸の間の登城道に設けられた門で、
正保二年(1645)の城絵図では入母屋造り、二階建ての二重門になっているが、創建年代や変遷は不明である。
清水門の名は門付近に仙台藩の御用酒づくりに利用された清水があったことにちなむ。 」
道の反対には「仙台藩御用酒発祥の地」という石碑が建っていた。
道を更に下ると、巽門跡で、その先にあるのは三の丸掘の一部である長沼である。
その先の左側に片倉小十郎の屋敷があったという。
この道の左側にあるのは仙台市博物館であるが、ここが三の丸があったところである。
境内には支倉常長の記念碑や政宗の銅像や魯迅の碑など、多くの碑が建っていた。
「 残月亭は四畳半の屋敷の茶室を中心に水屋が付き、屋根は寄棟造り柿葺きになっている。 初代仙台区長の松倉恂により建てられたもので、部材の一部は江戸時代の部材を使用していて、 扁額は正保四年(1714)に第五代藩主吉村が初代藩主政宗の筆跡となる残月亭の扁額を模刻したものを 明治二十七年にさらに復刻したものである。 」
博物館を出たところにあったは「子の門跡」で、説明板がある。
「 子の門は木造二階建て、瓦葺きの門で、正保の城下絵図(1645)では子の方門とある。
三の丸への北出入口である。 現在も石垣の左右残っているが、昭和に修理されたものである。 」
子の門跡の先の左側には「三の丸堀跡」の説明板がある。
「 三の丸は江戸時代の城下絵図では蔵屋敷、御米蔵、東丸などとも記載され、 藩に納められた御年貢米などの貯蔵する場所として用いられていたと考える。 奥州仙台城絵図(1645)によると、その規模は東西約百四十四メートル、南北約百十七メートルで、 周囲は大規模な土塁と堀で囲まれていた。 発掘調査により、初代藩主伊達政宗の時代には 庭園や茶室を伴う屋敷があったことが明らかになった。 土塁と堀は現在も残り、三の丸堀跡の北側は五色池、東側は長池と呼ばれている。 かっては長沼の南端、巽門の東側にもカギ型の堀があり、 巽門と一体になって、城の出入口を形成していたが、現在は埋められている。 」
長沼に沿って進むと三叉路の信号交叉点で、左折して坂を上っていく。 左下には五色沼が見え、前方の右手に石垣が見えてきた。
「 この石垣は仙台城の大手門の北東の石垣で、石垣の上には桟瓦葺き、漆喰塗の土塁が配されている。 この土塀は空襲で焼失せず残ってもので、仙台城内に現存する唯一の建造物である。 」
道の反対にある建物は大手門隅櫓である。
大手門と共に昭和六年(1931)に国宝に指定されたが、戦災により焼失。
現在の建物は昭和四十二年(1967)に民間の寄付により外観が復元された建造物である。
大手門隅櫓の前に「大手門跡」の案内板があり、在りし日の大手門の写真が付いていた。
「 大手門は素木造、二階建、屋根は入母屋造、瓦葺きで、 桁行が六十五尺(約19.7m)、側面の梁間が二十二尺三寸(約6.8m)、高さは十二・五メートルと全国的にも最大級の 城門だった。 正面冠木に菊と桐の金箔押の飾金具をあしらい、棟に鯱を頂いていた。 脇櫓と共に国宝に指定されていたが、昭和二十年(1945)七月九日の仙台空襲により焼失した。 」
脇櫓と道路を隔ててある北東石垣の間に大手門が建っていた訳だから、如何に大きかったかは分かる気がした。
北東石垣の脇に支倉常長の銅像が建っていた。
支倉常長については前述の博物館の一角にある記念碑に「 遺欧使節 支倉常長は通称、六右衛門 仙台藩始祖伊達政宗は使節として慶長十八年(1613)九月十五日、 仙台藩建造のサン・ファン・バプチスタ号に乗り、牡鹿郡月ノ浦を出帆、メキシコ、イスパニアを経て、 元和元年(1615)九月三日ローマに至り、法王パオロ五世に謁見し、使命を遂げ、 同六年八月二十六日帰国。 同八年七月一日没した。 年五十二 」 とある。
北東石垣に沿い下り、左折して地下鉄東西線国際センター駅を目指す。
右側にあるのは国際センターで沢山のトラックが列を作っていた。
道の左側の北側は東北大学の敷地だが、かっては仙台城の二の丸だったところで、
広大なものであったと驚く。 左側に「扇坂」の説明板がある。
「 扇坂は千貫沢に架かる筋違橋と大手門を結ぶ道から二の丸に登る坂で、 下に向って広がる形状から扇坂と称された。 坂の前面を横切る千貫沢の水路には南北二ヶ所に石橋を架け、北側にこれより先は馬を乗り入れないことを示す 下馬札が立ち、厩があった。 大手門は藩主の出入と特定の儀式のある式日以外は開門されず、 藩士にとっては、この扇坂と二の丸北方の千貫橋が通常の登城口だった。 」
これで仙台城の探訪は終了である。
所在地:宮城県仙台市青葉区川内
JR東北本線・東北新幹線仙台駅下車
西口バスプール9番より仙台市バス「仙台城跡方面行き」では約25分、仙台城南下車、徒歩約5分
西口バスプール15番3より仙台市バス「るーぷる仙台」では約20分、仙台城跡下車、徒歩約3分
日本100名城の仙台城のスタンプは仙台城見聞館(9時〜17時)にて