日本100名城 (7) 多賀城(たがじょう/たがのき)
多賀城は、奈良時代に東北地方の陸奥国に築かれた陸奥国府(こくふ)と鎮守府(ちんじゅふ)を兼ねた城柵(じょうさく)で、
律令国家の行政と軍事の拠点であった。
「多賀城跡 附 寺跡」として、国の特別史跡に指定された。
「 大和政権は蝦夷を制圧するため、蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部の塩釜丘陵上に城柵を設置し、
役所を設けた。 多賀城と呼ばれる城柵は東辺約千メートル、西辺約七百メートル、南辺約八百八十メートル、
北辺約八百六十メートルのいびつな四角形で、外郭に築地塀や材木塀を巡らせ、南、東、西辺には門が開かれていた。
多賀城は八世紀初めから十世紀半ばまで存続し、その間大きく四回の造営が行われたというが、
十世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していったようである。 」
JR東北本線国府多賀城駅は無人駅で駅にはローカーもない。
駅の北西約一キロ、徒歩約15分歩くと、塩釜街道に面する小高い丘に、多賀城碑が保管されている小屋がある。
「多賀城碑」には、多賀城の位置や創建の経緯について 「 神亀元年(724)に按察使大野東人が築城し、
天平宝字六年(762)に藤原朝狩により修造された。・・・ 」 と百四十一字刻まれている。
塩釜街道を左に斜め横断して左側の小道に入ると、右側に遺跡があるようであったが、工事中であった。
業者の人の話では多賀城の関連工事だが、予算の関係から完成時期は分らないという。
その先に石仏が横に並べられているところがあり、その先に階段道がある。
これは多賀城政庁南大路跡で、説明板がある。
「 ここは多賀城の正門で、外郭南門から中枢部の政庁まで南北に通じる道路跡である。
発掘調査から、道路幅は政庁第T〜U期(8世紀)は約十三メートル、第V〜W期(9〜11世紀中頃)は約二十三メートル
だったことが分かった。
政庁南西斜面は自然石を並べた階段が設けられ、排水用の暗渠も設置されていた。
政庁第T〜U期の姿で復元された。 」
階段を上りきると、前方に広い空間が現れたが、外郭のほぼ中央部のこの小高い丘に建っていたのが政庁である。
その姿は説明板などと共にあるレプリカで想像できる。
中央にある正殿跡は建物の大きさがわかるようにコンクリートで土台が復元整備されていた。
「 政庁は政務や儀式が行われる城内で最も重要な場所で、周囲は東西約百六メートル、
南北約百七十メートルで、築地塀で囲まれ、内部には正殿を中央に後殿、左右前方に東脇殿、
西脇殿などの建物が建てられていた。 」
所在地:宮城県多賀城市市川城前ほか
JR東北本線国府多賀城駅から徒歩約15分
日本100名城の多賀城のスタンプは政庁跡の奥に降りると、右手に駐車場があり、
その脇の多賀城跡管理事務所(政庁跡北側、9時〜16時)にある。
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