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バス停を降りて目の前に見えたのは二の丸を囲む見事な石垣である。
「 盛岡城は東北地方では珍しい総石垣造の城で、盛岡産の大きな白い花崗岩が特徴で、 土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。 その石垣の見事さにより、会津若松城とともに、東北の石垣造り三大名城の一つにあげられている。 」
二の丸に向って上り始めると、左側にある高石垣は榊山稲荷曲輪の石垣で、右に屈折し進むとその先は枡形になっている。
突き当たりは三社跡の四阿で、枡形は吹上御門跡である。
その先には「ここは腰曲輪」の表示と「腰曲輪の変遷」の説明板がある。
馬場は吹上馬場と呼ばれ、その先には御宝蔵があったようである。
説明板「腰曲輪の変遷」
「 この付近は藩主が乗馬の練習をした馬場になっていた。
この説明板と本丸石垣の間である。
発掘調査により、腰曲輪は四期にわたって変化していることが分かった。
最初は不来方城(福士氏の居城)時代で、斜面に空掘、土塁などが階段状に設けられ、本丸の周囲を廻っていた。
盛岡城第一期(南部氏が居城を開始した時期)で、本丸や二の丸などに石垣が築かれたが、
腰曲輪は土手のままで、周囲には柵が廻っていた。
盛岡城第二期(壱七世紀後半)、腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれた。
盛岡城第三〜五期(十七世紀後半)腰曲輪西側にも石垣が築かれた他、
南側のくぼ地も次第に埋め立てられ、江戸末期には現在のような平坦な地形になった。 」
手前の左側に「 月待つや 独り古城の 松のもと 小提灯 」 という、宮野小提灯の句碑が建っていた。
その脇の石段は本丸に通じる階段である。
「 盛岡藩は明治維新時、会津藩などと旧幕府軍に組みしたので、明治政府からは朝敵とされ、
盛岡城は明治七年(1874)、石垣を残した以外、すべての建物が取り壊されて、荒廃した。
本丸へのこの石段は明治三十九年(1906)に岩手公園となった後造られたものだろう。 」
石段を上ると台座がある。 この広場は本丸跡で、本丸には中奥や大奥などのある本丸御殿が建てられていたが、
今は「本丸跡」の石柱があるだけである。
明治時代に、藩主末裔の南部中尉の銅像が建立されたが、第二次大戦の時供出され、今は台座だけが残る。
左手隅(南西端)の少し高くなっているところに本丸御二階櫓が建っていたが、明治七年(1874)に取壊された。
右手隅(南東端)の櫓台には四阿が建っているが、櫓台は天守台である。
「 築城の時、本丸に天守台を築いたが、幕府への遠慮から天守は築かず、
御三階櫓を建てて天守の代用した。
天保十三年(1842)、南部藩十二代藩主、南部利済により、天守の名に改称されたといわれる。 」
当時は、天守台の左側に多聞櫓があり、その先の脇櫓と繋がっていた、という。
御末御門跡の両側の石垣がきれいに残っている。
「 御末御門は、本丸東側の中央にあり、右側に脇櫓、左側は北西端の隅櫓と繋がる多聞櫓で構成され、
入口はスロープの外枡形で守りを固めていた。
なお、御末とは宮中、将軍家や諸侯などの奥向きで雑用に従事する女中が詰める部屋のことである。
ここでは大奥の裏にある門から名付けられたのだろう。 」
本丸の西側中央には現在は朱塗りの渡雲橋が架かっているが、 城があった当時は廊下橋(屋根付橋)が架けられていた。
「 御廊下橋は二の丸と繋がっていて、殿様はこの橋を使用して二の丸と行き来していた。 また、御廊下橋は右側(北東部)にある隅櫓、左側(北西部)にある網戸櫓と多聞櫓で繋がっていた。 」
御末御門を下るとクランク状の枡形で、江戸時代には冠木御門があり、その奥に淡路丸があった。
左手奥は現在多目的広場になっているが、かっては台所があり、台所御門があったようである。
本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られていた。
淡路丸から、本丸と二の丸を見ると、それを支える石垣は立派で、
また、防衛力も強かったように思えた。
「 本丸と二の丸の石垣には古い打込接乱積(うちこみはぎらんづみ)や新しい打込接布積(うちこみはぎぬのづみ)のほか、 一部に築城当時の野面積が見られる。 」
二の丸は周囲に植栽が多く植えられているが、中央に「二の丸跡」の標石がある。
「 二の丸は明治三十九年(1906)、岩手公園になる際、ほぼ同一平坦面に整備造成されたため、藩政時代と異なっている。 それ以前の南東部は二メートル程高くなっていて、その上に大書院と呼ばれる御殿が建っていた。 本丸が狭かったため、表御殿は本丸ではなく、二の丸に設けられていた。 ここではさまざまな儀式や儀礼が行われた他、藩主との対面の場になっていた。 南西部も二メートル程高くなっていて、南西部の石垣は西側に延びて、喰違虎口を形成し、 淡路丸や台所通じる穴門が設けられていた。 石垣は明治の公園整備の際撤去された。 」
西側の望岳亭の四阿に井戸跡の石組が残っている。
また、新渡戸稲造記念碑、警察彰功碑、消防義魂碑が建つ。
北西部に石川啄木の歌碑があり、それには 「 不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心 啄木 」
と書かれている。 歌碑は昭和三十年に建立されたもので、歌碑の文字は金田一京助である。
「 旧制盛岡中学時代の石川啄木は盛岡城跡をしばしば訪れたという。
当時の盛岡中学は内丸通りにあり、二百メートルと離れていなかった。
学校の窓から逃げ出してきて、文学書や哲学書を読み、白日の夢を結んだのが盛岡城二の丸。
かってはここから岩手山を遠望でき、盛岡市内も見下ろせる風光の地だった。 」
石川啄木の歌碑の右手(北東部)にあるのは車門跡である。
「 二の丸の北側は巾三・五メートル〜五メートルの石土居で囲まれていて、 北東部に車門が設けられ、喰違虎口になっていた。 」
車門を出た先は三の丸である。
「 三の丸には南部稲荷神社が祀られ、その横に烏帽子岩がある。
盛岡城を築城の時、二代藩主南部利直は三の丸の高さが二の丸とほぼ同じ高さだったので、地形を削るように命じた。
その命令により、三の丸にあった三角状の岩の周囲も削られた。
しかし、岩の根は深く、堀進むと神事や儀式に用いる烏帽子に似た巨大な岩石が現れた。
これを見た南部利直はまことにめでたい兆しであると喜び、それ以降、盛岡藩の守り岩として歴代の藩主が崇め、
烏帽子岩には注連縄を張り、権現舞や獅子踊りなどを奉納し、藩内の平安息災神事が行われたとある。 」
その先にある修復中の石垣は三の丸瓦御門の石垣である。
瓦御門は枡形の虎口で、かっては瓦葺の櫓門になっていた。
瓦御門跡を過ぎると一段低い場所に桜山神社がある。
「桜山神社の由来」
「 江戸時代中期寛延二年(1749)、南部藩八代目(南部家三十三世)利視が、
南部藩初代(南部家二十六世)信直の遺徳を偲び、
城内淡路丸に神殿を建立、淡路丸大明神として祀ったのが最初。
十一代(南部家三十六世)利敬が、文化九年(1812) 桜山大明神に改称し、
同十五年(1818) 南部家初代光行を合祀した。 盛岡城廃城により他に移されたが、
明治二十二年(1899) 三の丸鳩森下曲輪(御蔵跡、勘定所跡)に本殿、拝殿、神門を建立し、翌年、現在地に遷座された。
大正元年(1912)には盛岡藩三代目(南部家三十六世)利政を合祀した。 」
これで盛岡城の探訪は終わる。
所在地:岩手県盛岡市内丸
JR東北本線・東北新幹線盛岡駅下から盛岡循環バス「でんでんむし」左回りで約10分、岩手公園下車、徒歩すぐ
日本100名城の盛岡城のスタンプは
@ 盛岡城横の もりおか歴史文化館(盛岡市内丸1−50 TEL019−681−2100)
A プラザおでって 2階 観光文化プラザ(盛岡市中の橋通り1丁目1−10 TEL019−604−3305
9時〜20時 )
の2か所でもらえる。