日本100名城 (5) 根城






根城は八戸市街地の西端の馬淵川南岸の河岸段丘上にある連郭式の平山城である。
根城跡の史跡の広さは約18.5ヘクタールで、史跡の主要部分は「史跡根城の広場」として公園化されているが、 現在でも館跡の礎石、曲輪、空堀、土塁が遺構として残っていることから、 「中世の北奥羽を治めた根城南部氏の居城」として、昭和十六年に国史跡に指定された。
根城を創建した南部師行の銅像が建っている。

「 根城の創建は、鎌倉時代にまでさかのぼる。  南朝時代に国司代に任じられた南部師行が城として修築し、陸奥の南朝方の一大拠点となった。  師行の死後、弟の政長が跡を継ぎ、南朝方への忠誠を守り続けたが、 南朝方が劣勢になると南部氏の勢力は次第に弱体化していった。  明徳四年(1393) 南部氏八代、八戸政光が本領の甲斐国から根城に移り、 南部氏の再興を図ったが、このことから、この系統は八戸氏とも呼ばれる。  その間に、同族の三戸南部氏が力を付け、根城八戸氏は三戸南部氏の南部信直の支配下に組み込まれてしまう。  天正二十年(1592) 秀吉の諸城破却令により、城(堀など)は破壊されたが、館自体は残された。  これ以降も八戸氏の本拠であり続けたが、 寛永四年(1627)、八戸氏二十二代直秀は南部藩主利直により、遠野横田城に移封となり、根城は廃城になった。 」

根城配置図があったが、右のオレンジ部分が八戸市博物館で、その隣(左側)の水色部分が下の写真の空堀である。

「 根城は西側(左側)に本丸、その北東側に中館、東善寺館、国道を挟んだ南東側に岡前舘(現在は住宅地)、 沢里館の五つの館(曲輪)が連なっていた。
東善寺館、岡前舘の東側から沢里館にかけて三番堀が巡らされて、 本丸の西側に西の沢、城郭の北側に馬渕川があり、 各郭ごとに巡らされたV字の堀(薬研掘)と自然の地形をうまく利用した堅固な城だった。 」

ボランテイアガイド小屋の先に「堀跡」の説明板があった。

「 堀は地面を深く堀り込み、敵の侵入を防ぐために造られたもので、 この堀は本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字型の空掘(薬研掘)で、 三番堀と共に城の東側を守る重要な施設である。 
現在博物館のある東構地区から発掘調査で屋敷跡が見つかっているので、 この地区を根城の城内に含むと考えている。 」

南部師行の銅像
     根城配置図      空掘跡
南部師行の銅像
根城配置図
空掘跡



空堀には東門があり、そこをくぐると右手に「薬草園」があるが、その奥に東善寺館があったようである。 
この区画は広くその先に実のなる木の案内板があり、右手には桂の木もある。 
中央部に「通路跡」の説明板がある。 

「 この通路は堀を埋め戻して、その上に砂利などを敷いて造ったものである。  通路は中央部に広がり、二手に分かれるが、この分岐点から中館側(左手)は掘立柱建物や溝などで壊されていて、 通路として使われなくなったことが分かった。  もう一方の通路は下町方面に伸びると考えられる。 」

その先の左側にある堀はV字型の空堀だが、現在でも一メートル程掘ると地下水が出ることから、 堀底には水が流れていたことも考えられる。 

「 堀の規模は本丸や東善寺館と並び、根城の中では大きい方である。 
なお、城の中央を東西に横切っている国道も堀だったと推定され、 その堀を境にして郭の区画は北側が三角形、南側(沢里曲輪)は短冊型になっている。 」

薬草園
     通路跡      空掘跡
薬草園
通路跡
空掘跡



空掘の先の四阿(あずまや)あたりが中館跡である。 
本丸は全体が柵で囲まれ、廻りは空掘で囲まれ、中館と本丸の間に堀に渡した木造の木橋があった。 
木橋から本丸へ通じる門は東門と北門及び西門があったが、東門が通常の門である。 

中館跡
     木橋      東門
中館跡復元された木橋復元された東門



近年発掘調査が行われ、 平成六年に本丸の主殿、工房、鍛冶工房、板蔵、納屋、中馬屋、野鍛冶場、番所、井戸、塀、門、柵、木橋、 四阿などが復元された。 
東門を入ると主殿の前に上馬屋、中馬屋があった。
発掘された柱穴群に基づいて、主殿と上馬屋、中馬屋が復元されている。 

「 主殿は当主が特別な来客と会ったり、さまざまな儀式を行ったところで、 儀式に使う道具や南部家に伝わる家宝が納められ、大事に管理されていた。 
建物の中は大きな部屋が規則正しく並んでいた。 
土間の台所以外は板敷になっていて、畳は特別な会見や儀式の時だけ出されて使用されていたようである。 」

その奥(南側)ある柱穴群は常御殿跡である。 

「 常御殿は当主が居住し、政治をとったところで、 重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、従臣の詰所などがあったと思われる。 」

常御殿の奥には奥御殿もあった。 

「 奥御殿は当主の家族が住んでいたところで、 先祖の霊も祀られていた。 当主は先祖の拝礼や家族のもとに常御殿から通ってきた。 」

主殿と上馬屋、中馬屋
     常御殿跡      奥御殿跡
主殿と上馬屋、中馬屋
常御殿跡
奥御殿跡



常御殿の西側には工房、南側には野鍛冶場、鍛冶工房があった。

「 野鍛冶場は壊れた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしていたところである。  鉄はまじりものを除いてからいったん棒状にして、 銅は鋳型に流し込んで固めた後、鍛冶工房で加工された。  強い風は炉熱を逃がしてしまうので、板塀で囲んで防いでいた。 
鍛冶工房の建物は竪穴式で、地面から九十センチ下にある鍛冶場では職人が鎧や刀の部品の他、 釘などを作っていた。 
鍛冶場にはフイゴと炉があり、周囲には鍛冶道具や不用になった鉄、銅銭、炭などが置かれていた。  当時金属は貴重なので、壊れた鉄片でも再利用された。  鉄製品は金づちで鍛え、銅は鋳型に流し込んで作られた。 」

板蔵は当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を保管していた建物である。

「 品物を守るために厚さ六センチの厚板を使って丈夫に作られた。 
板は柱の上から落ちこむようになっていて、簡単に外すことができない構造になっていた。 」

野鍛冶場
     鍛冶工房      板蔵
野鍛冶場
鍛冶工房
板蔵



所在地:青森県八戸市根城字根城87  
JR東北本線・東北新幹線八戸駅から南部バス「司法センター経由」で約15分「博物館前」で下車、徒歩約5分で本丸跡   
日本100名城の根城のスタンプは八戸市博物館にて 
 


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かうんたぁ。