日本100名城 (4) 弘前城






弘前城は、津軽地方を平定した津軽為信(当初は大浦氏)の志を継いた子の信枚(のぶひら)が慶長十六年(1611)に築城した城で、 弘前藩津軽氏四万七千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。

「 弘前城は津軽平野に立地し、創建当初の規模は東西六百十二メートル、南北九百四十七メートル、 総面積四十九万二千平方メートル(約十四万九千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり、 三重の濠と土塁を巡らせた梯郭式平山城である。 
小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。 」

市役所前でバスを降り、水堀に囲まれた追手門に向う。

「 追手門は四代藩主、信政の時代に碇ヶ関に通じる道がつくられて参勤道になったことから、 三の丸のこの門が大手(正面)の門になった。 構造は脇戸付楼門、屋根銅瓦葺き。  築造は築城当時に遡るとされ、当初は木瓦葺きだったが、後に銅瓦葺きに葺き替えられた。  また、明和三年の大地震により大きな被害を受けたことから、二層内部に支柱、筋違、捨梁を入れて補強している。  昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」

追手門を入ると三の丸で、左側は市民広場、右側は弘前城植物園になっていて、植物園には三の丸庭園がある。 
植物園の入口で左折して市民広場を横断して進むと市民会館がある。  また、直進して進み、三叉路を左折して進むと博物館がある。  その先、赤い杉の大橋を渡る。 

追手門
     三の丸跡      杉の大橋
追手門
三の丸跡
杉の大橋



橋を渡るとあるのが二の丸南門で、二の丸東門と同様、楼門の一階正面の柱に、 ケヤキ板を化粧のための鏡板をして張りつけるなど、内廻りの門としての配慮がされている。 
築城時頃からあったと思われ、当初は木瓦葺きだったが、 文化年間に銅瓦を葺いたとのいう記録が残っているという。  昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 
二の丸の南西にあるのは未申櫓である。

「 未申櫓は城郭に取り付く敵を攻撃したり、物見のために造られたもので、 防衛、防火のために土蔵造りとなっている。 
二の丸の現存櫓は辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓の三棟で、いずれも三層建てだが、 窓の形など細部の造作に違いが見られる。 」

櫓の名前は十二支で方向を示したもので、南東にあるのは辰巳櫓である。

「 一、二層は四間四方の同面積だが、三層は小さくし、屋根は入母屋造りである。  この櫓で藩主は三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になったという。 」

二の丸南門
     未申櫓      辰巳櫓
二の丸南門
未申櫓
辰巳櫓



本丸に入る橋は下乗橋と呼ばれ、二の丸側に下乗札があり、藩士は馬から降りるように定められていた。

「 築城当初の橋の両側は土塁板だったが、文化八年(1811)に石垣に直された。  以前はギボシが十二支をかたどったものだったという。  現在の橋は平成十七年に竣工したものである。 」

橋から向うは入場料がいる。  現在橋の向こうの右側の石垣は工事中である。 
以前訪れた時には写真のようにここに天守が建っていた。

「 弘前城の天守は、弘前藩二代藩主、津軽信枚により本丸南西隅に建てられた五重の建物だったが、 寛永四年(1627)の落雷で出火、天守内部に収納されていた火薬に引火して大爆発を起こして、本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。  寛永五年(1628)、地名の鷹岡を信枚の帰依する天海大僧正が名付けた「弘前」に改称し、城名も弘前城となるが、 以後、二百年近くの間、天守のない時代が続いた。  文化七年(1810)、九代藩主、津軽寧親がロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、 天守の代わりとして、 本丸南東隅の辰巳櫓(南東隅櫓)を解体、新築して、文化八年(1811)に竣工した。 」 

本丸唯一の現存建築である天守は層塔型三重三階の建物で、現在は独立式であるが、 最初は北側に多聞櫓を付属させた複合式だったようである。  なお、多聞櫓は明治二十九年(1896)ごろまでに破却され、今はない。 
天守を支える石垣が膨らんで崩壊の恐れがあるとして、 天守を引き屋により本丸の中央に移されて公開されている。 

「 弘前城の天守は昭和二十四年(1949)に松前城天守が焼失したため、関東以北で唯一現存する天守で、 高さは約十四・四メートルである。  外壁は白漆喰塗籠、窓と狭間の上下に長押形を施し、屋根瓦は寒冷地のため銅瓦葺きである。  外側に面する東面と南面は一層目と二層目に大きな切妻出窓を設け、 窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施されているが、 現在公開中の天守入口の方から見ると分かるが、 本丸の内側に当る西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。 」

下乗橋
     天守      天守
下乗橋
本来の位置の天守
移動した天守



反対側に廻ると、天守を眺められる展望台があり、本丸外側に面する東面と南面が目に入った。 
ここには「弘前城天守台石垣の特徴ある隅石」という説明板があり、 ここに置かれている長さ二十七メートル、巾一メートル、高さ六十センチ、 重さ三トンのイカの形をした石は愛称いかすみいしと呼ばれる。  全国でも弘前城跡にしか見られない稀な石形である。 
東屋になっているところには「本丸戌亥櫓跡」の説明板があり、  「 元禄三年(1690)に柿葺き(こけらぶき)の葺き替えが完了している。  また、同九年には櫓下の番所の修復も行われていて、 北の郭から櫓下、本丸への通路があった。 」 とある。 

天守の東面と南面
     いかすみいし      本丸戌亥櫓跡
天守の東面と南面
いかすみいし
本丸戌亥櫓跡



鷹岡橋を渡り、本丸を出る。 
そこには武徳殿があるが、右手に行くと二の丸東門がある。

「 二の丸東門は南門と同様、楼門の一階正面の柱にケヤキ板を化粧のための鏡板をして張りつけるなど、 内廻りの門としての配慮がされている。  築城時頃からあったと思われ、当初は木瓦葺きだったが、文化年間に銅瓦を葺いたとのいう記録が残っているという。  昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」

二の丸東門与力番所は城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、 追手門与力番所、三の丸東門与力番所など十二ヶ所にあった。 
この番所の建築年代は分かっていないが、柱や梁に残された墨書は江戸時代初期に建てられた三の丸東門の 墨書きに酷似し、構築手法が江戸中期の様相を呈していることから、 古材を利用し、江戸中期に改修したものと推定される、とあった。 

たかおかはし
     二の丸東門      与力番所
たかおかはし
二の丸東門
二の丸東門与力番所



武徳殿は北の郭跡である。 出口に向ってすすむと、右手に二の丸丑寅櫓がある。

「 丑寅櫓は二の丸の北東にある三層の櫓で、土蔵造り、銅板葺き(当初はとち葺き)で、 軒下や出格子は素木のままで飾り気はないが、独特の美しさを見せる。  昭和十二年に国の重要文化財に指定された。 」

江戸時代には本丸、二の丸、三の丸および附属の郭は三重に巡らされた堀により区切られていたが、 この先には濠が残っている。 
道を進むと城門跡と思えるところがあり、「賀田御門跡」の説明板がある。

「 築城当時は北門が城の表玄関で、ここにあった賀田門は三の丸の北門として、 旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。  門の内外は直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて、堅固な構えを見せている。 」

賀田橋を渡ると広い空地が横たわり、左側には護国神社の鳥居がある。 
そこを抜けると北の郭北門(亀甲門)がある。

「 築城当初、十の城門があったが、そのうちの一つで、 現存する五門はいずれも国の重要文化財に指定されている。 
北の郭北門は脇戸付楼門で屋根銅板葺き、現在は搦手門だが、築城当時は大手門だった。  現存する他の四門と比べ、規模が大きく、かつ、銃眼がないなどの特徴をもつ。  大光寺城(平川市)の城門を移築したという伝承をもち、 転用材が多いことから中世以降の系譜を持つことが想定される。 」

以上で弘前城の探訪を終えたが、史跡弘前城は堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、 八棟の建築と現存十二天守に数えられる内の天守が現存していて、 現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されていた。 

丑寅櫓
     賀田御門跡      北門
丑寅櫓
賀田御門跡
北の郭北門




所在地:青森県弘前市下白根町1  
JR奥羽本線弘前駅から弘南バス100円循環バスで、約15分「市役所前)下車、徒歩すぐ   
日本100名城の弘前城のスタンプは天守内と緑の相談所(植物園)の二ヶ所にある 



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かうんたぁ。