日本100名城 (3) 松前城(まつまえじょう)
松前城は、外国船の出没に備えて、江戸幕府が、嘉永二年(1849)に松前藩に築城を許可し、
嘉永三年から安政元年(1854)に日本式で築かれた最後の近世城郭である。
基になったのは、慶長五年から六年の歳月をかけて築かれた福山館という陣屋である。
「 松前家の始祖は、室町時代の武田信広で、上ノ国館主の養子となり、蠣崎氏と改め、
渡島半島の南部に地歩を築く。
その子・五世慶広は豊臣秀吉に直接臣従し、慶長四年(1599)には徳川家康に服し、姓を松前氏に改めた。
当初は蝦夷島主として客臣扱いだったが、五代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇となり、
享保四年(1719)には一万石格の大名となった。
初代藩主松前慶広は、慶長五年(1600)、大館の前方にある福山台地に築城を開始し、六年の歳月を費やし、
慶長十一年(1606)に陣屋の福山館を完成。
大館にあった寺町を福山館の周囲に移し、寛永六年(1629)、領内の千軒岳金山の金掘り人を動員して石垣を修築させた。
嘉永二年(1849)、江戸幕府は蝦夷地近海に出没する外国船が多くなってきたため、
松前藩十三代藩主崇広に津軽海峡の警備強化を図るための築城を命じた。
崇広は翌嘉永三年(1850)、当時の三大兵学者の一人である高崎藩の市川一学に設計させた。
一学は、海防上から福山は無理であり、箱館後方の桔梗野にある庄司山付近に築城するよう上申したが、
藩士たちは移転を好まず、福山館を拡大して築城することになった。
五年の歳月を経て、安政元年(1854)に完成した松前福山城は日本最後の日本式城郭になった。 」
松前城は面積約七万七千八百平方メートルで、城郭は本丸、二の丸、三の丸に分れ、
三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなり、構造形式は平城である。
明治元年(1868)の五稜郭戦争では、旧幕府軍の木造蒸気船、蟠龍及び回天が松前城を砲撃し、
三重櫓(天守)及び石垣等に多く命中、今でも正面石垣には三ヶ所の弾痕が残っている。
明治六年(1873)九月、城の取り壊しが決まり、同八年、三層天守、本丸御門、本丸表御殿を除いた建物、石垣を取り壊し、
濠を埋めて、城郭の形態が失われた。 松前城の天守は昭和十六年(1941)、国宝に指定されたが、
昭和二十四年(1949)、町役場から出火した飛び火により、三層天守は焼失してしまった。
現在の天守は昭和三十六年(1961)に再建されたものである。
二の丸跡にあるのは松前神社で、その前に広がるのは本丸御殿跡である。
松前神社は松前藩の先祖に当る武田信広公をお祀りしている神社で明治十四年に創建された。
現在の社殿は大正十二年に総ヒノキ造り神明造りで再建されたものである。
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本丸御門と三層天守(再建) | | 弾痕が残る正面石垣 | | 本丸御殿跡と松前神社 |
所在地:北海道松前郡松前町字松城144
JR江差線 木古内駅から、函館バス「松前行き」で約1時間30分「松城」下車、徒歩約10分
日本100名城の松前城のスタンプは松前城資料館(天守内)にある
[開館・公開時期] 4月10日〜12月10日 9時〜17時(入館時間は16時30分まで)
[入館料]大人360円 住所 松前町字松城 電話番号 0139-42-2216
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