日本100名城 (2) 五稜郭(ごりょうかく)






五稜郭は、江戸幕府が、幕末に箱館奉行所の防備を固める目的で築造した、星形の西洋式城郭である。  隣接する五稜郭タワーから眺めると、五角形の縄張りや三角形をした半月堡など、他の城では見られない城の景観が見られる。 

「 幕末に入るとロシアやアメリカなどの船が訪れるようになり、 安政元年(1854)の日米和親条約により、下田と函館が開港され、函館山麓(現在の元町公園)に函館奉行所が設けられた。 
しかし、港湾から近く防衛上不利であることから、内陸の亀田の地に奉行所を移すことになった。 
江戸幕府は函館奉行所の防備を固める目的で、安政四年(1857)から 西洋軍学や築城術に優れた伊予出身の函館奉行所諸術調所教授役、武田斐三郎が設計した西洋式の稜堡式城郭を築造を始めた。 
七年後の元治元年(1864)、役所建物などがほぼ完成したので、函館山山麓の奉行所が移転して、 蝦夷地の統治や開拓、開港地函館での諸外国との交渉など、幕府の北方政策の拠点となった。 
星形五角形(稜堡式)をした西洋式の土塁(城郭)であることから、五稜郭と呼ばれるようになった。 
稜堡式城郭は十五世紀に欧州で考案されたもので、防御に死角がないのが特色であるが、 五稜郭は幸いにも外国勢との戦いになることはなかった。  しかし、明治元年(1868)から翌年にかけて、旧幕府脱走軍と新政府軍との間でくり広げられた箱館戦争の舞台となった。 」

大手口から入ると、左側に水堀があり、橋の右奥に一段高い半月堡がある。
総堀の幅は最も広い所で約三十メートル、深さは約四ないし五メートル、外周は約一・八キロメートルである。

「 築造当時、五稜郭の裏手約一キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、 地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。   しかし、第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化、 悪臭を放つようになったため、昭和四十九年(1974)からは水道水を堀に流すようになった。 」

端の右手前にある半月堡(はんがつほ)は、当初の設計では稜堡塁間の五ヶ所に配置する予定であったが、 工事規模の縮小などから、ここ一ヶ所だけ造られた。

説明板
「 半月堡は西洋式土塁に特徴的な三角状の出塁で、馬出塁ともいい、郭内への出入口を防御するために設置されたものである。  北側中央部の土坂が開口部となっている他は刎ね出しのある石垣で囲まれている。 」

五稜郭は水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と一ヶ所の半月堡(出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、 その内側に函館奉行所を中心として、二十数棟の附属建物などがあった。 
予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小され、半月堡はここ一ヶ所だけ、  内岸沿いの低塁も三辺のみ、郭外の長斜坂も四辺しか造られなかった。 

五稜郭
     総堀      半月堡
タワーから見た五稜郭
虎口にかかる総堀
一の橋先の右側は半月堡



橋を渡ると三ヶ所ある虎口(出入口)の一つで、石垣がある。
五稜郭を囲む土塁は堀割から揚げ土を積んだもので、 土を層状に突き固める版築という工法で造られている。 
郭内の出入口になる三ヶ所の本塁は、一部だけが石垣造りになっている。  特に正面出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣より高く築かれていて、 上部には「刎ね出し」と呼ばれる防御のためのせり出しがある。 

「 刎ね出しとは武者返し、忍び返しとも呼ばれ、上から二段目の石がせり出して積まれているため、 外部からの侵入を防ぐ構造になっている。 」

本塁(土塁)は堀を掘った土で築かれ、高さは七・五メートル、 幅は土台部分で三十メートル、上部の塁道が八メートルあり、塁道は砲台として使用された。 
そのほか郭内への入口の奥に高さ五・五メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ二メートルの低塁、 郭外に高さ一メートル強の長斜坂が築かれた。

「 当初は総堀のほか、土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、 費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され、 石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった。 」

石垣には函館山の立待岬から切り出された安山岩や五稜郭北方の山の石が使われた。 

虎口の石垣
     刎ね出しがある石垣      石垣の構造
虎口の石垣
刎ね出しがある石垣
本塁石垣の構造




下の左の写真は総掘と奥に見えるのが二の橋、堀の左側が見隠土塁、右側は見えないが一の橋がある。 

「 現在五稜郭には、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、 そして、北側の裏門橋と、三つの橋が架かっているが、 築造当時は半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。 
現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、昭和二十五年(1950)から昭和五十五年(1980)までは、 太鼓橋が架けられていた。 
郭の内側には土塁が設けられているが、これは敵の侵入を防ぐための見隠土塁と呼ばれるものである。 
また、総堀のほか、郭内への入口三ヶ所の両側に幅四メートルの空堀が造られた。 」

五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢などの建物が建てられた。

「 建材は津軽、南部、出羽など、瓦は能登、越後など、 釘や畳は江戸というように各地から運ばれた資材が用いられた。   建材は能代などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた。 」

函館奉行所は郭内中心部に建てられ、一部二階建、規模は東西約九十七メートル、南北約五十九メートルで、  西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた。
役所部分は正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、 白洲や土間などのある北棟に分かれていた。 
正面玄関を入った先に高さ約十六・五メートルの太鼓櫓が設けられていたが、 箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際にその照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している。

「 函館戦争後は、明治四年(1871)に開拓使により、奉行所を含むほとんどの建物が解体され、 大正時代以降は公園として一般に開放された。 
昭和六十年(1985)から発掘調査が始められ、平成十八年(2006)から函館奉行所の復元工事が開始し、 平成二十二年(2010)に完成した。  復元された奉行所は南棟と中央棟部分のみだが、当時と同じ材料、同じ工法で復元されている。 」

築造時点では大砲を設置していなかったとみられるが、旧幕府軍が五稜郭を占領したときには、 二十四斤砲四門が配備されていた。  箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤カノン砲九門、四斤施条クルップ砲十三門、拇短クルップ砲十門を配備していた。 
降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は長カノン二十四斤砲九門、四斤施条砲三門、 短忽微(ホーイッスル)砲二門、亜ホート忽微砲三門、十三拇(ドイム)臼砲十六門であった。 


二の橋
     函館奉行所      秣置場跡、御備厩跡
二の橋
復元された函館奉行所
秣置場跡、御備厩跡




所在地:北海道函館市五稜郭町・本通1  
JR函館本線函館駅下車、路面電車「湯の川行き」で約16分、「五稜郭公園前」下車、徒歩約10分  
または函館バス「五稜郭公園入口」下車、徒歩約5〜10分   
日本100名城の五稜郭のスタンプは五稜郭タワーのチケット売り場と函館奉行所の向かいの板庫(休憩所)の二ヶ所に置かれている  



 戻る(日本100名城表紙)




かうんたぁ。