『 甲州街道 府中宿(続き) 』    




平成二十二年(2010)十月二十日、久し振りに大学OBの会合に出るために上京した。 
会合は夕方なので、前回歩けなかった府中宿を歩こうと訪れたが、思った以上に東京駅から時間がかかった。 
当日は雨で苦労しながら、府中から南武線矢川駅まで歩いた。




武蔵国府八幡神社

東京駅から四十分位で府中本町につけると思っていた。 
乗ったのは中央線の快速だが、中野までは駅を飛ばして走っていたが、 その後は各駅停車。  その上、乗り換え駅の確認が不十分なため、通り過ぎるというへまも重なった。  その結果、八王子駅で降りて、京王線経由で東府中駅にいったため、到着は十時半を過ぎていた。 
東府中駅で降りると、前回通った交叉点に出たが、京王線の線路を越えて歩いて行く。
前回はコンビニの交叉点で左折して進んだため、競馬場まで行ったが、 コンビニを直進すると、左側に空地のような小公園があり、 そこには「八幡宿」の由来碑があった。

「八幡宿の由来碑」
「 八幡宿は現在の八幡町一、二丁目の一部に集落の中心があった村落です。  この村落は六所宮(大國魂神社)の社領に属しており、新編武蔵風土記稿には六所社領の小名としてその名が見えます。  ものもと八幡宿は国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、 甲州街道が開設(慶安期=1648〜52)されたのに伴って街道筋に移動したものです。  宿場町のような村名ですが、八幡宿は農業を中心とした村落です。  地名の起こりはこの地に国府八幡宮が鎮座していることにあります。  国府八幡宮は由緒深いお宮で、聖武天皇が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。 」 

公園にはこの碑以外ないので、その場から出るとすぐに、 「武蔵国府八幡神社」の大きな石柱と燈籠、奥に鳥居がある。
台座に「常夜燈」と書かれた燈籠には、 正面に「秋葉大権現」、左面に「国府八幡宮」、 裏面には「文政十一戌子年正月造立之」と刻まれているが、 火袋の部分は後日のものか新しいかった。 
  鳥居をくぐって参道を百八十メートル程歩くと、京王電車競馬場線の踏切に出た。 
踏切の先に二の鳥居があり、その奥に神門が見えた。
国府八幡宮は茂った林の中にあり、雨が降っていることも加わり、 薄暗く少し怖い感じだったが、 踏切から百メートル程で、社殿に着いた。
前回はセブンイレブン手前で左折して進んだため、府中競馬場に迷い込み、 そこで終わったが、国府八幡宮はこのようなところにあったのである。 

八幡宿由来碑
x 大きな石柱と奥に鳥居 x 踏切の先に二の鳥居 x 国府八幡神社社殿
八幡宿由来碑
大きな石柱と奥に鳥居
踏切の先に二の鳥居
国府八幡神社社殿






大國魂神社

街道に戻り、歩き始めると交叉点の左側に「競馬場正門通り」の標識があった。
八幡宿交差点の手前右側に「鍋やよこちょう」と書かれた石碑が建っていたが、 以前には職人がいる町があったのだろうか? 
八幡宿交差点を過ぎると、左側に大きな御神木があり、 その奥に「大國魂神社」の石柱と鳥居があった。

「御由緒書」
「 当社は、第十二代景行天皇四十一年(111)、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ) の託宣により創立された。  出雲臣天穂日命(いずものおみあめのほひのみこと)の後裔が 武蔵国造に任ぜられ、 当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕して その祭務を掌られたといわれる。  孝徳天皇時代の大化の改新(645年)の時、武蔵の国府がこの地に置かれ、 当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。  又、国司が武蔵国内の神社を奉幣巡拝、あるいは神事執行等を行うのは大変なので、 ここに武蔵国内の神を配祀し、 武蔵総社となった。  大化の改新後、本殿の両側に武蔵国の著名な六神(小野大神、小河大神、氷川大神、 秩父大神、金佐奈大神、杉山大神)を奉祀して、六所宮と称するようになった。  現在の神社名の大国魂神社になったのは明治十八年(1885)のことで、 かっては武蔵総社、江戸時代には六所宮と呼ばれていた。 
寿永元年(1182)、源頼朝が葛西三郎清重を派遣し、北条政子の安産の祈願が行った。  又、文治二年(1186)には武蔵守義信を奉行として社殿を造営した。  徳川家康は、天正十八年(1590)、江戸へ入府すると社領五百石を寄進し、 社殿その他の造営を行った。  しかし、正保三年(1646)、類焼により社殿は焼失したが、 寛文七年(1667) 将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し、再建した。 」

神社の境内は一万坪強と広く、ぐるっと回ると一キロ程になるといわれる程奥深い。  緑に包まれた参道を歩いてもなかなか社殿には着かなかった。 
奉納された大きな常夜燈の奥に、宮乃盗_社、相撲場と忠魂碑があった。 
その先に享保二十年(1736)、川崎定者が建てた随神門があるが、 あいにく修理中とあって門は覆われていた。
その先左側の鼓楼は、太鼓を叩いて時刻を知らせるもので、 徳川家康が造営したものを嘉永十七年(1854)に再建したものである。
その先の中雀門は昭和四十四年の建立とあり、新しい。 

競馬場正門通り
x 大國魂神社の石柱と鳥居 x 随神門 x 鼓楼
競馬場正門通り
大國魂神社の石柱と鳥居
随神門
鼓楼



中雀門をくぐると正面にある拝殿は明治十八年改築、昭和五十三年改修とあるが、 大変大きな建物である。
その奥の本殿は、三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りである。 

「 家康が造営した建物は正保三年(1646)に焼失したが、 寛文七年(1667)に改築された。  当初は檜皮葺(ひわだぶき)だったが、 慶応年間に銅葺に改められたという。 」

本殿の両脇には配祀された神社があるが、その中に東照宮もあった。

「 元和四年(1618)二代将軍秀忠の命により、 駿河久能山から日光東照宮へ霊輿が遷される途次、 この国府の斎場に一夜逗留せられたので、 その遺跡を後世に伝えるために造営されたと伝えられるものである。 」

街道に戻り、道の右側に渡ると伊勢丹がある。
その前はけやき並木で、京王府中駅方面に続いているが、 道路に面したところに「従是一之鳥居迄五町余」 と刻まれた道標が立っている。
石碑(道標)の脇に、「ケヤキ並木馬場寄進碑」の説明板がある。

「説明板」
「 馬場大門のケヤキ並木両側の参道はかって馬場であり、 馬場大門の名称もこれに由来しています。 馬場は慶長年間(1596〜1615)に、 徳川家康が六社宮(現大國魂神社)寄進したものと伝えられています。  この碑は由緒ある馬場を長く後世に伝えるために建てたもので、 花崗岩の石に、従是一之鳥居迄五町余 左右慶長年中 御寄附之馬場 と、 刻まれています。 」 

石碑が建てられた時期は不明のようであるが、  江戸後期の「武蔵名勝図会」に紹介されているので、 それ以前であることは間違いない。 
ケヤキ並木には、以下の話が残っているが、史実に実証はなく、伝承にすぎない。 

「 源頼家、義家父子が、奥州征伐に出陣の際、六社宮に寄り、 戦勝祈願を行った。 、そのかいがあり、安倍一族を平定。  戦勝記念に六社宮に千本のケヤキを奉納したのが始まりである。  その後、関が原の戦いに際し、六社宮が徳川家康の戦勝を祈願し、 府中の馬市から多くの馬を送ったのに対し、 家康が二条の馬場を献納し、欅を補植した。 」 

街道を少し歩くと、 並木の前に平成十一年に建てられた万葉仮名で書かれた歌碑があった。

隣に「歌碑に寄せて」という石碑があり、 その中に 
「 武蔵野の草は諸向きかもかくにも君がまにまに吾は寄りにしを 」  と現代語に変えて記していた。 
また、 「 草が風に傾くよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに 」  という意味の歌で、自然と共に生きた女心を歌ったものという、解説文があった。

拝殿
x 東照宮 x 道標 x 歌碑
大國魂神社拝殿
東照宮
道標
歌碑






府中宿

「 府中は、武蔵国府があったことから古代から武蔵国の中心で、 鎌倉街道が通り、その後、甲州街道が開設されると宿場町として栄えた。 
宿場は、新宿、番場宿、本町の三つの町からなり、人口は二千人以上の都会だった。 
府中宿の本陣は一軒、脇本陣が二軒、旅籠は二十九軒だった。 
このあたりの現在の地名は宮町だが、江戸時代は新宿である。 」

大國魂神社前から百五十メートル行くと、府中市役所前交差点がある。  甲州街道は直進である。
左右の道は府中街道で、左折すると、登戸、溝の口、 小杉を経て川崎方面へ南下し、右折すると国分寺、東村山、所沢方面へ向かう。
交差点を越えた左側に塀に覆われ、 二つの門のあるところがあり、「東京都指定旧跡府中高札場」の説明板と 「甲州街道」の道標と「府中小唄」の石柱があった。

説明板「高札場」
「 高札場は、江戸には日本橋など六箇所の大高札場をはじめ、 三十五箇所にあったという。  府中の高札場は、甲州街道と鎌倉街道が交叉する大國魂神社の御旅所の柵内にあり、 屋根を有する札懸けで、これに六枚ぐらいの高札が掛けられていた。 」

府中小唄の石柱には、

「  六社明神さま暗闇祭りヨ   闇に旅所へ渡御なさる   あれは灯じゃない空の星   星さえ府中を出てのぞく   」 

とあった。 
道の反対、右側の蔵造りの家は万延二年に建てられたという中久本店である。
中久本店は酒屋だが、蔵の部分は喫茶店になっているようだった。 
また、蔵の建物の外壁の灯の下には「、札の辻と問屋場跡」の説明板がある。

説明板
「 甲州街道(道中)と鎌倉街道が鍵の手に交わるところに高札場があったところからこの界隈は 「札の辻」とか、 「鍵屋の辻」 と呼び親しまれていました。  安政六年(1859)府中宿本町に大火があり、 それを機に萬延二年(1861)中久本店の店蔵を防火建築物として再建。  隣地は問屋場(江戸時代の宿駅、人馬、駕籠などの継ぎ替え所)であったため、 大道芸人の辻芸を楽しむ人々等で賑わい、武蔵府中の中心として栄えた。 」

中久本店の二軒先には玩具桜井の看板がある店があり、 看板から創業は古いことが窺えたが、店は閉まっていた。 
その先にも箒の専門店があり、この通りには歴史を感じさせる店があったが、 いつまで続くだろうかと少し心配である。 
少し行った、宮西町四丁目十四の道の右奥には番場公園があり、 そこには「番場」と書かれた建物があり、「御本社一之宮」の木柱が立っていた。 
道路側には「番場宿」の石碑が建っていた。
このあたりは、府中宿の一つであった「番場宿」があったところである。

「石碑の文字」
「 番場宿は宮西町二・四・五丁目の街道に面する一部に集落の中心があった宿場です。 この宿場の元の名を茂右衛門宿といいます。  これはこの土地が名主茂右衛門によって開発されたことによります。  番場宿と称するようになったのは寛永十三年(1636)のことといわれています。 」

番場宿は当初これより南方のハケ沿いにあったが、 甲州街道の整備の際、当地に移転したもので、 幕末の地誌、武蔵風土記稿には家数が百三軒と記されている。 

府中市役所前交差点
x 府中高札場跡 x 中久本店 x 番場宿の石碑
府中市役所前交差点
府中高札場跡
中久本店
番場宿碑



その先の右手奥には長福寺がある。 
その先に信号交叉点を越えると「鹿島坂」の石碑がある。

「石碑」
「 坂の名は大國魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれています。  五月の例大祭に「国造代奉幣式」という古式があります。  この式は、国造代(奉幣使)が神馬に乗って坪の宮におも向き、 御輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、 甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。  この式は古く社家の鹿島田家がこの役を担っていたため、 この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に名前の一部をとって、鹿島坂となったようです。 」

道の両脇には緑道が横断しているが、これは「下川原緑道」といい、 国鉄下川原線の跡地を人と自転車の専用道路にしたものである。

「 国鉄下川原線は、 明治四十三年に東京砂利鉄道として開業したのが最初で、 その後、軍用鉄道になったり、通勤線になったりしていたが、 武蔵野線の開通など交通事情の変化により、廃線になった。 」

片町交番前交差点の左手に高安寺の門が見える.
五十メートル程入ると、南無観世音菩薩の赤い幟が立ち、その先に観音堂があった。
高安寺は、足利尊氏が安国利生(あんこくりしょう)の寺として再興した、 曹洞宗の名刹である。  尊氏の法号をとって、龍門山等持院(りゅうもんさんとうじいん)という。

「説明板」
「 高安寺観音堂は寺の西、観音橋付近にありましたが、 江戸初期の大水に流され、享保年間(1716〜1736)に再建されたと伝えられます。  この観音堂は桁行三間、梁間三間の入母屋造りで、江戸中期の三間堂です。 」

観音堂から少し戻り、左折すると立派な山門がある。
山門は明治五年(1872)に建てられたもので、左右に仁王像が鎮座していた。 

鹿島坂の石碑
x 下川原緑道 x 高安寺観音堂 x 山門
鹿島坂碑
下川原緑道
高安寺観音堂
山門



楼門に仁王像があるのは不思議ではないが、 門をくぐった裏には、鮮やかな色彩の玉を持った地蔵尊と奪衣婆(だつえば)の像がある。

「 奪衣婆は、三途川(さんずのかわ)の渡し賃である、 六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取るのが役目の老婆である。  また、亡者の死後の処遇は剥ぎ取った衣類の重さによって決められたといわれてきた。   しかし、江戸時代末期頃には、「 奪衣婆は、疫病除けや咳止め、 特に子供の咳止めに効き目がある 」 と、信じられる民間信仰が起こり、 奪衣婆を祭ったお堂などが建立された、といわれる。 」

高安寺の山門のもその信仰から祀られたのだろう。
その先には鐘楼があるが、これは安政三年(1856)に建てられたもので、 東京都選定歴史的建造物に選定されている。 
高安寺の本堂は、 寛永元年(1624)に火災に遭い消失したものを享和三年(1803)に再建したものである。 
正面には「等持院」の扁額があるが、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。
墓地には、木曽義仲の子孫で、自由民権運動をした木曽源太郎義顕の墓がある。

「 木曽源太郎は熊本藩の藩士だが、 木曽義仲の二一代目の末裔といわれた。  幼くして孤児になったが、藩内で国学などを学び、 安政の末年上京して勤皇の志し、西園寺実満と東奔西走して皇権の回復を画策した。  文久三年(1861)に熊本藩を脱藩し、討幕運動に身を投じ、 同年十月、但馬生野に挙兵し、代官所を占拠したが、幕府軍に鎮圧され、 長州に逃れた。  明治維新後は伊勢度会府判事や護国神社権宮司などを歴任した。 」 

墓地には江戸時代初めての代官、高林吉利や、番場宿神戸(ごうど)の屋号が「四人部屋」という旅籠の主人で文化人の野村瓜州(かしゅう)の墓もある。 
墓地の奥に俵屋藤太秀郷を祀った「秀郷稲荷大明神」の社殿があり、 その横に「古蹟 弁慶硯の井戸」の石碑が建っている。 
案内の矢印に従い、下に降りると古い井戸があった。 
これが弁慶の井と称する古井戸である。

「  源義経が兄頼朝の勘気が解けるまでこの寺(当時の寺名は見性寺)に待機していたが、弁慶は義経の赦免嘆願のため、井戸の水で墨をすり大般若経を書写した。 」 という伝説が残る井戸である。 
「秀郷大明神」を祀る祠とこの井戸との高低差は数メートルあるが、 江戸時代までは寺は崖上にあったという。  交通の要路の上、要害の地だったため、足利時代から戦国時代にかけて、 高安寺は重要な軍事拠点になったようで、しばしば主戦場となり、 戦国時代の終り頃には寺院は荒廃してしまった。 」

崖下から南方の様子が窺えないので、要害地ということがピンとこなかったが・・・ 

奪衣婆
x 高安寺本堂 x 木曽源太郎義顕の墓 x 弁慶の井
奪衣婆
高安寺本堂
木曽源太郎義顕の墓
弁慶の井



高安寺を出て街道を行くとなだらかな上り坂になったが、 これは弁慶坂のようである。
次の信号の手前左側の高安寺の塀の一角に、 「 府中名木百選 高安寺のケヤキ 樹高30m、幹周4m 」 とある石碑がある。
その隣に「弁慶坂」の説明板がある。

江戸名所図会に、「 甲州街道に架する橋を弁慶橋と号(なず)け、  東の坂を弁慶坂と呼べり 」 とあります。  この坂は高安寺に伝わる伝説に由来します。 
これは高安寺の堂の裏にある古井戸から、弁慶が井戸の水を汲んで硯の水とし、 大般若経を書写したと伝えられるものです。 
高安寺は往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として中興した名刹です。  この地は武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。 」 

信号の先に、右に行く大きな道があるが、 その角に明治四年建立の「橋供養塔」と書かれた石柱と、 最近建てられた「弁慶坂」の標柱があり、 「 ここに野川に架かる橋があり、弁慶橋と呼ばれていた。 ・・ 」 と記されている。
道を渡った向う側にある青山ケンネルの建物の角に、棒屋坂の標柱があり、
「 地名の由来は、坂を下りきった所の家が棒屋と呼ばれたためといわれています。 ・・・ 」 とあり、 この前に通る坂道が甲州街道であること、それ以前の道はもっと南寄りのハケ道だったことが記されていた。)
この坂道は百メートル程だらだら続いているが、片町図書館を過ぎると、 京王線の踏切があった。
この南方に四、五分のところに京王電鉄の分倍河原の駅がある。

「 分倍河原は、 元弘三年(1333)五月に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と幕府側の北条泰家が 戦った古戦場跡である。 その後も、享徳四年(1454)には、 鎌倉公方の足利成氏と関東管領、上杉氏との戦いも行われている。 」

ここまできたところで、雨が強くなり、時計を見ると十二時七分なので、 「蕎麦処ふるた」という看板につられて中に入り、雨宿りを兼ねた休憩になった。 
江戸時代の府中宿の終わりはどこか分らなかったので、ここで終了とする。 

弁慶坂
x 弁慶橋 x 棒屋坂の標柱 x 京王線の踏切
弁慶坂
弁慶橋
棒屋坂の標柱
京王線の踏切





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かうんたぁ。